藤田嗣治本読みくらべ

藤田嗣治―パリからの恋文

平野政吉美術館のミュージアム・ショップにて、フジタ作品の絵葉書何枚かと、湯原かの子さんの評伝藤田嗣治―パリからの恋文』*1(新潮社)を買い求めた。
湯原さんの本は、今年3月、ちょうど東京国立近代美術館で「藤田嗣治展」が開催された頃刊行されたものである。出たことは知っていたけれども、例によってなぜか大学生協書籍部に入荷されない。その後東京堂書店などでも見かけたが、あいにく懐具合が良くなかったりでタイミングが合わず、しばらく様子を見守っているうち時間が過ぎ去り忘れてしまっていたのである。
せっかく平野政吉美術館を訪れ、「秋田の行事」をはじめとするフジタ作品を堪能したのだから、そういう機会にこそ買うべき本だろうと財布の紐をゆるめた。今回の秋田行には二冊ばかり読書用の本を携えていたのだが、いずれも読み終わらず、中途半端になりそうだった。頭が“フジタモード”になっていたこともあり、どうせ中途半端ならばと、帰りの新幹線で湯原さんの本を読み始める。
偶然か、はたまた平野政吉美術館のたくらみなのか、本書『藤田嗣治―パリからの恋文』に備えられた紺の栞紐(スピン)が挟まっているページが、ちょうどフジタが秋田の平野家の土蔵で「秋田の行事」を描いたというくだり(186-187頁)であったのには感嘆した。位置的にありえない場所ではないとはいえ、偶然にしては出来すぎている。
以前読んだ近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』*2講談社文庫、→3/12条)とついくらべてしまう。近藤さんがNHKの人、湯原さんは芸術家の評伝などの著書が多い研究者(淑徳大学教授)であって、そのような立場を踏まえて読めば、近藤さんの本がいくぶんかジャーナリスティックな切り口で、そのときどきのフジタの心情にまで迫って書かれているのに対し、湯原さんの本はフジタという対象を客観的に記述したという雰囲気がある。
湯原さんの本の特徴は、副題にもあるように、フジタが東京美術学校卒業後、最初にパリに渡航した大正初年に、最初の妻で日本で留守を守った鴇田とみに宛てて出された書簡から、パリに渡った当初のフジタの生活の様子や、日本に残してきた妻への愛情を明らかにしたことだろう。
パリに渡って以来、フジタは妻に、パリに渡って一緒に暮らそうと繰り返し呼びかけている。妻は夫の誘いに対し決して拒否していたわけでなく、実父の死去や自身の罹病などで渡仏の機会を逸し、第一次大戦の勃発により決定的に阻まれてしまった。フジタからの便りも途絶えがちになり、最終的にフジタの実父から妻の実家に対し双方のためという理由で離縁の申し入れがなされ、別居のまま離婚してしまうのである。
結局、あれほど熱い思いを寄せつづけていたフジタが、なぜ突然妻を一方的に離縁するに至ったのか、書簡やその他の資料からはまったくわからないのがもどかしい。大戦下のパリで窮乏生活にあえぎながら、ロンドンやアメリカで再出発をはかろうとしていたさなかのことであった。しかしながらフジタはアメリカに渡ることなく、パリにとどまって、戦後花開いたエコール・ド・パリのなかで一時代を築くことになる。
湯原さんの本で魅力的なのは、やはり書簡を使ってフジタのパリ生活を再現したこのあたりまでの叙述であり、後半は平板な印象をまぬがれない。戦争に対する協力のあり方や、そのために傷ついて戦後ふたたびパリに渡り、定住するに至るフジタの足跡については、夏堀全弘氏が執筆したフジタの評伝草稿に、フジタ自らが詳細な書き込みをし、添削をほどこした「夏堀用手記」に依拠した近藤さんの本に分がある。
近藤さんの場合、フジタが戦争画を描いた背景にある「無思想」「反戦思想の欠如」といった評価に疑念を呈し、フジタが時局迎合的に戦争画を描いたのには、「日本人」としてのアイデンティティを獲得しようと背伸びする痛々しいほどの思いを感じとっている。
これに対し湯原さんは、次のように解釈する。

フジタは思想家ではなく、あくまで絵描きなのである。たとえそれが戦闘場面であっても、目新しい題材を描くことに本能的な喜びを感じてしまう。また、そこに自分のオリジナリティーを盛り込もうとする。その絵が時流に適ってもてはやされるとなると、つい、悪ノリしてはしゃいでしまうのは、生来の気質のなせる業であろう。(213頁)
フジタの「無思想」性の背後に、アルチザンとしての姿を見る人がいたというが、湯原さんのこの指摘は、むしろその議論に近しい。あの戦争画の背景に、「日本人」藤田嗣治の真剣な苦悩を読み取るか、「芸術家」フジタの本質をうかがうか。
江戸の絵師に連なるような職人的気質論の誘惑にはあらがいがたいけれど、ただ「無思想」で自らの嗜好に忠実に戦争画を描いていたとも思いたくない。迷うところである。