東京人になれない偽東京人

私、小市民の味方です。

このあいだ町屋の「路上古本屋」で中島梓(文)山藤章二(絵)『にんげん動物園』の元版(角川書店刊)を見つけた(→10/13条)あと、以前作成した「夕刊フジ連載エッセイ一覧表」(→2005/12/22条)を修正していたら、そろそろまた夕刊フジ連載山藤挿絵本を読もうかという気になった。
電車本を読み終えたタイミングだったので、目に入った文庫本のうち、村松友視(文)山藤章二(絵)の『私、小市民の味方です。』*1新潮文庫)を読むことにする。
読んでいて気づいたのは、前回読んだ藤本義一さんの『サイカクがやって来た』と本書の間には、青木雨彦『人間百一科事典』、当の中島梓『にんげん動物園』、つかこうへい『つかへい犯科帳』があったこと。順番に読んでゆくつもりのところ、うっかり三つも飛ばしてしまったではないか。本書『私、小市民の味方です。』の第何回目の挿絵で、山藤さんがこれまで組んだ作家がずらり登場していたのを見て、初めて気づいたのであった。
わたしは村松さんの作品と言えば『鎌倉のおばさん』『贋日記』という親族との関わりで自らの過去を綴った作品や、『幸田文のマッチ箱』『ヤスケンの海』『夢の始末書』のような中央公論社編集者時代の回想記しか読んでいない。それらと比べると、少し面白味に欠ける印象だった。あるいは村松さんの作家性とこうした雑文的連作エッセイとは相性がよくないのかもしれない。
本書はタイトルにあるように、現代における「小市民」的ふるまいや、自らの「小市民的」思考を拾い集めた内容と言えるが、たとえば、鼻づまりで苦しんでいるときに味わったこんな「小市民的」幸福に強い共感をおぼえる。

ハーハー口で息をしていた私は、まず躯を反転させて右を向いた。すると、上になった左の鼻の穴がムズムズという感じになり、カリタ式でいれたコーヒーが、最後のところでシュワッと吸い込まれるような快感がやってきた。(72頁)
「カリタ式」というのが聞いたことがあるようでよくわからぬながら、きっとあれだろうと思いあたるふしがある。頭の向きの加減で鼻づまりが直ること、うむ、ささやかな幸せだ。
森茉莉の「ドッキリ・チャンネル」に悪口を書かれてうじうじ悩む第91回「私のドッキリ・チャンネル」も面白い。悪口を書かれて凹んだ村松さんと奥さんの会話を披露した文章だけでなく、そこに添えられた山藤さんの挿絵を合わせ、きっちり完結する。
村松ッつあんが可哀相にめげているときに、アチキはトツゼン夏休みで甲子園!!だもんね」という文章(「甲子園」の三文字がイラストの枠内いっぱいに大きく書かれている)に、麦わら帽子をかぶって日焼けした顔の山藤さんがバンザイをしているイラストが描かれているのである。悩める作家と、開放的な挿絵画家の明暗の妙。
これ以外にも山藤さんの挿絵は相変わらず快調で、永井龍男とトイレで隣同士になって用を足したときの挿話(第41回)や、しゃがんで蕎麦を食べる江戸人の指摘(第34回)などのほか、今度は山藤さんの「小市民」的挿話にこれまた深くうなずいた。
第8回「新聞を「捨てる」ヒト、「のこす」ヒト」で、村松さんが、電車の中で読み終えた新聞を網棚へのこすタイプか、ホームのゴミ箱に捨てるタイプかを読者に問うている。村松さんは網棚派だそうだが、これに対する山藤さんの挿絵には、次のような文章が書き込まれている。
電車の網棚においてある新聞を、拾って読むことがどうしてもできない、というタイプがある。「実はオレもそうなんだ」という友人たちのほとんどが東京人だ。正直な話、座席にいて手もちぶさたの時など、目の前の新聞に手を出したくなるのをジッとこらえるのはつらい。自分の美意識とのバカバカしい闘いで東京人は座っていながらクタクタになる。(33頁)
こういう文章を読むと、わたしは田舎育ちなれど、「東京人」的気質を強く持っていることをあらためて感じさせられるのである。わたしも網棚の新聞を取って読むことはできない。網棚にある新聞の上に荷物をのせるのにも躊躇する。
などと書いたものの、突然馬券を買う気になり立ち寄った場外馬券売場などで、競馬新聞を買うのがもったいないので、ゴミ箱に捨てられた新聞を拾ってそれで検討したことが何度かあるから、もはやそこに美意識など存在するはずもない。化けの皮ははがれるべくしてはがれる。