嫉妬話が好きな松本清張

途上

細谷正充編松本清張初文庫化作品集3 途上』*1双葉文庫)を読み終えた。このシリーズは現在「初文庫化作品集」として『失踪』『断崖』『途上』『月光』の4冊、それに『発想の原点』という対談集が出ている。
すでに昨年『初文庫化作品集1 失踪』は読んだ(→2005/11/22条)。おそらく先日映画を観たあと『黒い画集』を掘り起こしたときのことだろう、松本清張の山の上のほうにあった『途上』と『月光』『発想の原点』をよけたまま戻すのを忘れ、そのまま別の山の上に置きっぱなしにしていた。たまたまそれが目に入ったのでそのまま読み始めたのである。
本来であれば順番どおり『断崖』を読むべきなのだが、移動した分に入っておらず、あらためて山を掘り返すのも面倒なのであきらめた。
『失踪』に収められた4篇の中短篇もそうであったが、本書に収められた「紙碑」「途上」「老十九年の推歩」「夏島」「信号」もまた、編者細谷正充さんが言うとおり、なぜ文庫に収められなかったのか訝しく感じるほど質の高い作品ばかりである。
前集に入っていた「二冊の同じ本」はブッキッシュな古本小説であるうえに、ミステリとしても佳品であったが、今回の『途上』に収められた諸篇を読むと、松本清張出世作「或る『小倉日記』伝」以来、一貫してブッキッシュな志向を持ちつづけ、それを小説のかたちで表現しようとした人であることがわかる。
その意味でもっともブッキッシュなのは「夏島」だろう。古書店を通じて入手した“幻の地下出版本”を起点に、大日本帝国憲法の草案段階のものが漏洩した事件の真相を推理する歴史ミステリである。
その他の短篇をかいつまんで紹介すれば、「紙碑」は、早世した前夫の画家の事績を新しく編まれることになった『現代日本美術大辞典』に立項させようともがく元妻の話。評価に恵まれないまま夫が病没したあと実直な学校校長と再婚したものの、画家の妻としての矜持を忘れず、どうしても前夫の事蹟を後世に残そうとする執念。同じように不遇のうちに生涯を終えた知人の画家の未亡人との間の辞典掲載をめぐる葛藤が人間くささを感じさせる。
「途上」は書名にもなっており、このなかの代表と目されるが、本作品集のなかではもっともわたし好みでない。考古学研究者だった男が人生に絶望し、浪々の果て公営の行路病者収容所に入れられ、同居していた人間たちの人生の断面を垣間見る話。学者が落ちぶれ、身をやつすという点、清張の嗜好があらわれているだろうか。
「信号」は編者細谷さんも触れているとおり、地方の小説同人誌同人たちを主人公にした傑作長篇『渡された場面』に一脈通じる作品。地方と中央、自信があり能力もあるのに不遇な人物が、まぐれのように中央に認められた人物に対して抱く嫉視。これまた清張的。
そして最後に紹介する「老十九年の推歩」が一番好きな作品だ。利根川の水運で栄えた佐原の大きな造酒屋の婿養子だった伊能忠敬が、隠居したあと江戸深川黒江町に移り住み、そこでの19年間に成し遂げた測量家としての実績を淡々とした筆致で追いかけた「史伝」である。
細谷さんは「小説というより評伝」としているが、この場合むしろ「史伝」とすべきだろう。なぜならば、抑制された文体や、行間からたちのぼる書巻の気が鴎外の史伝を連想させるからである。「わたくし」という一人称で語り進めるあたり、清張自身も鴎外の史伝を強く意識していたのではあるまいか。
べつに物語は大きな謎をはらむわけでもなんでもない。まあ、なぜ裕福な商家の主人だった伊能忠敬が隠居して測量家となったのか、これだけでも人物的興味を抱かせるに十分な謎ではあるけれど、さしたる仕掛けをほどこさず、清張は老伊能忠敬の業績を探る糸を一本一本丹念にたぐりよせ、編み上げる。
そのなかにもいかにも清張らしい物の見方が見え隠れしており、それを見つけることもまた読む愉しみにつながる。幼い頃に実母を喪った忠敬は、母方の家に引き取られる。のち父の住む家に戻ったが、父は後妻を迎えており、居づらくなったため親類の家を転々と流寓する身となったという。

が、彼を学問好きにさせたのは、先天的な面もあるが、やはり少年時代の逆境と、養子の身というのが大きな要素となっているように思う。
 忠敬が三治郎といって亡母の親戚縁者の間を孤児同様に七歳から十一歳まで寄食して転々としていたころ、幼な心にも人の顔色を読むことをおぼえたであろう。
 これはその経験のない人にはわからない。(102頁)
清張は確実に忠敬をわが身にだぶらせて描こうとしている。
忠敬が幕府に召し抱えられるようになると、もともとの内弟子に加え、幕府天文方の役人が測量班に加わる。身分的には天文方の役人が上だから、測量の技術は未熟なくせに、いや未熟だからこそ、技能優秀な内弟子たちに圧迫を加えるようになり、対立が増幅する。
忠敬測量隊班員間の不和は現今にも通じる話だとして、外国の考古学的発掘調査の日本隊における学閥対立、地位に対する嫉視、学力差からくる反目、性格の相違、人間の好悪が不和の要因になると指摘する。
長期間、男のみが生活する環境からくるヒポコンデリー的なストレスも加わるであろう。昼間は協同の作業を進めていても、夜のキャンプでは酒が昂じて声高な口論となり、殴り合いとなり、ときには血が流れることもあるという。なまなましくてこれ以上書けないが、その混乱のため数年前に中央アジアの遺跡発掘に出かけた某大学は調査報告書はもとより概報すら未だに出せずにいるという。(136頁)
「なまなましくてこれ以上書けないが」という文章に清張の舌なめずりを見るのは、穿った見方だろうか。清張はやはりこういう話が好きであり、清張が語るこういう話は面白いのである。