満州的混沌を解く鍵は

幻のキネマ満映

満州は混沌として理解しがたい。何でも呑み込んでしまいそうであり、「この人とあの人が知り合いなのか」と、およそ考えられないような人の結びつきでさえ、満州が介在していると説明されれば、奇妙に納得してしまうところがある。
60年代あたりまでの日本映画を観ていると、そうした“満州での知り合い”というつながりや、渡満して辛酸を味わった人の戦後といった場面に多く出くわす。そう説明しさえすれば真実味があって、誰にも文句は言えないような、歴史のブラックボックス
満州にあった満鉄、これも素人には容易に理解できない。満映満州映画協会)となると、ますますわけがわからない。満州で作られた映画については、出久根達郎さんの長篇小説『かわうその祭り』を思い出す(→2005/6/5条)。
満映の理事長は、関東大震災のおり大杉栄らを拘引惨殺した憲兵大尉甘粕正彦だった。この程度の知識であればかろうじて知らないこともない。でも甘粕という人物がどのような人物で、大杉事件以降彼はどうなり、どういった過程で満映理事長になったのか、そしてなぜ敗戦時に自殺しなければならなかったのかといった点は、満州の混沌同様、さっぱりわからなかった。
わたしにとって甘粕とは、映画「ラストエンペラー」での坂本龍一のイメージなのである。細面で、何を考えているのかわからないポーカーフェイスで、冷たさしか感じられないような雰囲気。
ところが今度平凡社ライブラリーに入った山口猛さんの『幻のキネマ満映甘粕正彦と活動屋群像』*1を読み、そうしたイメージが一掃された。しかも本書は、わけがわからない満州という対象が少しわかりかけてきたという知的満足度も高いものだった。
本書のカバーに甘粕の肖像写真が掲載されている。目つきは怖いのだが、風貌はおよそ坂本龍一とは異なり、卵形の頭に髪の毛が額から後退しはじめた坊主頭。本書では甘粕の生い立ちから、憲兵になるに至った経緯、大杉事件から満映理事長就任までを丁寧に追いかけ、甘粕のポルトレを描くことに成功している。

満州での、こうした活動の中で特筆されるのは、彼の性格にある〝私心のなさ〟だった。彼が、満州建国から崩壊に至るまで、一貫して隠然たる力を持ち「昼の関東軍、夜の甘粕」といわれたのは、潤沢な資金に裏付けられたものでもあろうが、だからといって、彼は豪邸を建てたり、蓄財するという発想はまったく持っていなかった。(118頁)
遅刻を許さぬ時間に対する官僚的几帳面さと裏腹に、酒が入ると酒乱になるほど暴発する人柄。あらゆることに目を配り、偏頗しない。仕事に忠実で、権力に物を言わせるようなところが見られない。言葉づかいも丁寧。ただひたすら冷酷なイメージしかなかった甘粕像に修正を迫られた。
憲兵出身で、国家のため国策映画会社の運営を任され、満映理事長の影で政治工作にも携わった反面、共産党員まで受け入れるという懐の深さも持ち合わせていた。満映は右も左も関わりなく人材を受け入れたという点、わたしが感じた「満州的混沌」の一面を如実にあらわしている。
本書では、貧弱な設備と、低劣な技術、乏しい人材というところから出発した満映が、国内の社会状況悪化と日本の対中国政策の進展にともない、映画人にとって希望を抱かせる存在へと「成長」していった様子が克明に再現されている。
山口さんに言わせれば、満映の歴史とは、「国家を司る官僚と、強大な武器を持つ関東軍に囲まれた中で、いかに独自性を獲得していったのか、あるいは屈服していったかという苦闘の過程」(51頁)である。日本にいられなくなった人びと、満州に希望を抱き積極的に飛び込んできた人びと、右の人左の人、そんな多様な背景を持つ人たちのエネルギーを凝縮して運営されていたのが満映、ひいては満州という地だったのだ。
敗戦後満映も解散され、引き揚げてきた旧満映所属の映画人の多くは東映が受け皿となって仕事をつづけたという。東映任侠映画に流れる虚無感と絶望感は満映の影を色濃くひきずっていた。「映画製作に夢中になっていながらも、いつでも映画など簡単に捨てられるということを感じさせる抜き身の刃のような、ある怖さと潜在的なエネルギー」「奇妙なリアリティ」を生み出し、いっぽうで胡散臭さも感じさせるような作品を生み出した組織。レッド・パージで行き場をなくした映画人を平気で使う懐の深さを持ち合わせた東映は、甘粕満映の体質をも受け継いだ。
各章の巻末に付けられた詳細な人名注を読んでいるだけでも面白い。ほとんど知らない人ばかりなのだが、こういった人々が満州にいたのかということを知るだけでも、満州の混沌を解きほどく鍵をいくつも手に入れたような気分になる。ないものねだりだが、人名索引があっても良かった。