50年前の「人間魚雷」

「人間魚雷出撃す」(1956年、日活)
監督・脚本古川卓巳森雅之石原裕次郎/葉山良二/長門裕之/杉幸彦/三島耕西村晃/安部徹/浜村純/高品格内藤武敏/二本柳寛/芦川いづみ左幸子津川雅彦岡田真澄

前途ある若者4人が人間魚雷「回天」に乗り込み、敵艦に突入、海に散った…。といえば、先日封切られ公開中の市川海老蔵初主演映画「出口のない海」が真っ先に出てこようが、50年前にも石原裕次郎主演で同様の映画が撮られていた、ということを知った。
出口のない海」は横山秀夫さんのオリジナル小説が原作だが、あるいはもととなったモデルが同じなのかどうか、そのあたりはまったくわからない。この「人間魚雷出撃す」も若者4人と回天の物語なのである。
ストーリーは最初、敗戦後の軍事裁判で、イ58号潜水艦の艦長だった森雅之参考人として訊問される場面から始まる(通訳が岡田真澄)。森の潜水艦から発した回天が撃沈したのは、広島・長崎へ落とされた原爆を運んだ重巡洋艦で、原爆を基地へ運んだ帰途だったことを知らされ、「残念です」と森は答える。
そこから回想シーンとして、回天乗組員の訓練、出発前の一時帰宅、出発、攻撃の場面へとつづく。4人の若者とは石原裕次郎・葉山良二・長門裕之・杉幸彦。このなかでは葉山がリーダー格で、長門が最年少(19才)という立場である。人間魚雷出撃す [DVD]
最初の攻撃で、石原が乗る1号と葉山の乗る2号が出撃命令を受けたものの、1号の通信回路の故障により石原に命令が伝わらない。そこで代わりに3号の杉が命令を受け、葉山・杉とも攻撃に成功し、命を絶った。
複雑な思いで出発を見送る乗組員たち(西村晃や安部徹、高品格三島耕ら)と、それ以上に複雑な思いで待機しつづける石原と長門。未見であるが、前宣伝を見るかぎり、「出口のない海」では、市川海老蔵が元野球選手だったりするなど、回天に散った若者のそれぞれの人生が深く彫り込まれているように思える。
これに対し本作では、出撃前に最後の一時帰宅をした4人の別れの姿がワンシーンずつ挟み込まれるだけである。長門隅田川の水上生活者で、住居になっている船に帰ると、弟の津川雅彦(本当に弟役)が病気で伏せっている。葉山は恋人の左幸子と、石原は妹の芦川いづみ(やっぱり可愛い)と最後の(でも決して最後であることは知らせない)別れをする。
潜水艦が海に潜ってゆく様子もリアルであるし、艦内の上下の空間、設備・機器など、かなり精巧に作られ、梯子段で上層下層を上り下りするあたりのカメラワークが冴える。
出撃し敵艦に突入するまでの命という悲壮感や、それにともなう深い感動があるのではない。淡々と命令を発し(そのように見えるが、森雅之の表情は固い)、淡々と出発する。敵艦に突入する場面は回天やその当人がクローズアップされるのではなく、潜水艦の潜望鏡ごしに敵艦が爆発炎上したのが捉えられ、成功を知ることができるのみ。そのとき石原や長門がどんな気持ちで突入したのかという瞬間は観る者の想像にゆだねられる。
よくよく考えれば、この映画は、設定された(モデルとなった)時期からわずか10年あまりしか経っていない頃に作られたのだ。記憶もまだまだ生々しかったに違いない。全編に重苦しい雰囲気がかぶさっているのもそのせいだろうし、劇的なシーンはむしろ邪魔だったのかもしれない。太陽族として出てきた石原裕次郎は、鎮魂の映画としてのトーンを乱していない。
関川夏央さんは『昭和が明るかった頃』*1(文春文庫)で、石原裕次郎ほど軍人役の似合わない俳優はいなかった」とし、石原の登場により敗戦国日本の若者は自己嫌悪癖を払う風を与えられたと論じる。
石原裕次郎はこの年にデビューし、「狂った果実」で人気を得たばかりの頃だ。この頃の石原裕次郎は様々な役柄で主演作を撮っているが、やはり軍人役もあったのだ。とはいえたとえば「人間の條件」的な映画ではなく、海軍で突撃隊員という「人間魚雷出撃す」であるというのは、やはり石原のキャラクターゆえだろう。