映画の記憶、映画館の記憶、街の記憶

東京名画座グラフィティ

田沢竜次さんの『東京名画座グラフィティ』*1平凡社新書)を読み終えた。渋谷、池袋、新宿、銀座・日比谷にあった名画座(二番館・三番館など)の存在を、個人的記憶を中心に跡づけてゆく、強力な意志を感じる本だった。
著者の田沢さんは1953年生まれ。“黄金時代”から衰勢に向かいつつあった60年代から70年代、しかしながら映画というメディアがいまだ人々の娯楽の大きな部分を占めていた時代、東京のあちこちにあった二番館・三番館のたたずまいが、その町の雰囲気と複雑にからみながらなまなましく再現されている。
各映画館の思い出話を読むと、父親に連れられて二番館・三番館に行ったというものがけっこう多く、やはりこうした記憶の形成にあたっては、親の存在の大きさが思い知らされる。
東京の名画座たちが輝いていた時代の映画を取り巻く環境と現在のそれでは大きく違うことがわかる。観客や、観方という点に絞ってみるだけでも、クライマックスにさしかかると館内一体となって熱く盛り上がり、掛け声をかけたり、がやがやと雑談が始まったりする。そこに田沢さんは「夏休みの恒例行事だった小学校の校庭での野外映画大会にも通じるもの」(35頁)を見て取る。
ちょっとの雑音でも忌み嫌い、飲食物すら持ち込みを禁じてしまうような、禁欲的で「不寛容」な鑑賞文化とは異なるのである。映画鑑賞における「寛容さ」については、加藤幹郎さんの歴史的考察があった(中公新書『映画館と観客の文化史』*2、→8/1条)。二番館・三番館の存在する場所という観点からは、都市東京論へとつながってゆく。
映画を観る契機についても、さすが東京のB級グルメに関する著書のある田沢さんならではの指摘がある。新宿紀伊國屋書店裏手にある「新宿ローヤル」という映画館について、こんなふうに述べられている。

客層はやはり圧倒的に男性の一人客、映画青年というよりはサラリーマン、店員、工員など『ぴあ』を観ながら印をつけるのではなく、空いた時間にフラッと一本観てゆく、それも肩のこらないアクション映画を、というニーズにこたえた昔ながらの定食屋のような映画館だ。(95頁)
久世光彦さんじゃないけれど、「亡んでいくものは、みな美しい」ものなのか。田沢さんの本に刺激され、自分の映画館に対する記憶も浮かび上がってきたから不思議だ。東京に来て映画を観るようになってから、自分が味わった「名画座」の閉館といえば、横浜黄金町にあった「シネマジャック」を思い出す。
自分の住む町からは電車を何度も乗り換え一時間以上かけてようやくたどりつける町なのだけれど、伊勢佐木町の裏通りにあるうらぶれた雰囲気といい、大岡川の異臭といい、観終えたあと賑やかさからはほど遠い伊勢佐木町をぶらぶら歩いたり、周辺にちらほら残っている古本屋をのぞいたりした思い出といい、いまでは猛烈に懐かしい。シネマジャックがなくなったことでもうあの界隈に足を踏み入れる目的がなくなったという喪失感は大きく、記憶は甘美になる。
黄金町については、川本三郎さんが『我もまた渚を枕―東京近郊ひとり旅』*3晶文社)のなかで、隣の初音町とともに「いかがわしい」「猥雑」「ディープ」と表現している。もちろんシネマジャックへの言及も忘れない。
シネマジャックの思い出とともに、学生時代を過ごした仙台の映画館の思い出もまた浮かんできた。仙台の映画館のことを知ろうと、ウェブを調べて驚いた。わたしが仙台を離れてからできた映画館がある(仙台フォーラム)いっぽう、町中の繁華街にあった大配給会社(東宝東映・松竹)の系列映画館がことごとく閉館となっていたからだ。
夏休み仙台を訪れ、仙台駅前の山形行きバス停で並んでいたとき、ふと近くの十字路を見上げると、角にあった東宝ビルは建て替えのため周囲に足場が組まれていた。バスに乗って一つ目の停留所の前には三角の東映マークが付いたビルがあって、ここにはディズニーショップが入っている。目の前の通りは仙台の繁華街を横に貫くアーケードであり、かつて「水時計」があった場所。わたしたちが学生の頃は「○時“水時計前”集合」というのが合言葉で、そこから飲み屋に繰り出していったものだった。いまやそれがないのだ。
東宝東映のビルを続けざまに目の当たりにして、「あれ、松竹はどこにあったっけ?」と記憶の糸をたぐってみると、そのアーケードをずっと南に歩いたところに、丸善と向かい合わせにあったことを思い出した。いまやその丸善ともどもなくなっているとは。
東宝東映では映画を観た記憶がない。松竹では、先輩に余ったチケットがあると誘われ、男二人でトム・クルーズ主演のアクション映画を観に行った記憶がある。玉三郎の「外科室」もここで観た。
東宝の向かいには日乃出会館という、これまた東宝系の新作を上映する劇場があり、大学生になったばかりの年、その地下(日乃出劇場)で「タッチ2」を観たことを思い出す。といってもストーリーは忘れている。ブレッド&バターの主題歌と、お腹が痛くて上映中にトイレに駆け込んだこと、観終えて外に出たとき、映画館の建物が面している青葉通りでその年から始まった「光りのページェント」の(たしか試験点灯)で、電球を付けられて輝いているけやき並木の美しさという付随的な記憶のみ強く残っているのだ。
仙台駅東口には、「シネアート」という名画座があって、ここでは友人たちとヴィスコンティ特集を観に行った。お尻が痛いのを我慢しながら、4時間くらいあった「ルートヴィヒ・神々の黄昏」を観通したことが懐かしい。
これら仙台の松竹も、日乃出会館も、シネアートも閉館したことを知り呆然とする。仙台の人が映画を観るときは、郊外のシネコンに行かねばならないのだ。日本全体がそうした趨勢にあるとはいえ、町中から映画館が消えるというのはゆゆしき事態である。
映画を映画館で観るという記憶は、数々の〝映画館〟の思い出やその〝街〟の思い出につながっている。
田沢さんが本の冒頭でこう書いているように、映画の記憶、映画館の記憶、街の記憶は三位一体のものと言うべきだろう。シネコンについて田沢さんは「巨大スーパーの一スペースという印象が強くて、「あの映画をここで観たなあ」と思い出にふけることができなくなってしまったのだ」(17頁)と嘆いているが、シネコンは映画館の記憶と街の記憶という点で極端に稀薄化してしまっていると言わざるをえない。
映画を観ること自体機会は多くなかったけれど、かろうじて映画館の記憶と街の記憶がともなう時代に間に合ったのは、幸せだったのかもしれない。もっとも東京はまだこの点恵まれているのだが。