わたしの喫煙時代

けむりの居場所

わたしの喫煙時代はほぼそのまま20代に重なる。大学に入って一人暮らしを始めた頃から煙草をおぼえ(だから正確に言えば10代終わり頃からだが)、一日ひと箱、20本程度を灰にしていた。父親が喫煙者だったから、煙草を吸う環境に抵抗感はなかった。1986年にTBS系で放送されたドラマ「男女七人夏物語」での明石家さんまに強い影響を受け、吸い始めたように記憶している。煙草を吸うきっかけなんて、たいていそんなものだろう。
ちょうど30歳になったとき職を得て東京に移ったが、そのさい強烈なストレスがかかったのだろうか、体調を崩したのをきっかけに煙草をやめた。10年も吸っていたのだから、禁煙するのに苦労したかと言えば、まったくそのようなことはなかった。現実的な問題もあったゆえか、禁断症状など苦労も味わわずあっさりやめることができたのは幸いだった。
やめた当初は、お酒を飲む場で友人が吸っていたりすると、「やめられたんだから、たまにはいいか」と何本か貰い受け吸っていたりしたけれど、そこからただちに喫煙者に復帰するには至らなかった。
いまや煙草を吸っていた頃が嘘のように、飲み会の場でもまったく気にならず、逆にそうした場に長くいることで頭や衣服にしみつく煙の臭いを嫌がるようになってしまった。新幹線の喫煙車など言語道断である。いま思えば、よくぞあんな煙たい空間で呼吸をしていたものよと呆然としてしまうし、20代の後半からとはいえ、妻にもそうした場所に同居させていたのだから、自分のエゴイストぶりを反省するばかりである。
もっとも、だからといって喫煙反対を叫ぶつもりはない。これでも元喫煙者である。煙草を吸う人の気持ちもわかるつもりだ。それに最近、煙草を吸う人の仕草や、それらの人びとによってかたちづくられる雰囲気がまた妙に気になりだしたのだ。
古い日本映画を観ていると、煙草は欠かすことのできないものであったことがわかる。昭和20年代、30年代の人びとは、のべつまくなしに煙草を吸っている。煙草を吸うことは何ら社会悪ではなかった。家の中ではもちろん、現在ではもってのほかとなっている公共空間でも、人はスパスパと煙草を吸っている。電車の中、飛行機の中、病院、しかも産婦人科でも!
最近観た井上梅次監督の「死の十字路」はとくに印象深かった。あらためて数えてみると、私立探偵役ほか二役をこなした大坂志郎は20本もの煙草を映画の中で口にしている。愛飲しているのはピースであった。その他主演の三國連太郎は7本、三島耕は4本など、煙草を吸っていない場面はないと言っていいほどだ。大坂志郎の吸いっぷりに、若い頃のさんまへの憧れほどではないにせよ、煙草を吸う人間へ愛着がわいてしまうのである。
そんな気分になっていたところに、野坂昭如『けむりの居場所』*1幻戯書房)という新刊アンソロジーを目にしたので、つい買ってしまった。パウル・クレーの線描があしらわれたミニマルな装幀も好ましい。
見ると本書は、JTの協賛で『週刊文春』に昭和40年から連載が開始され、現在も続いているコラム「喫煙室 くつろぎの時間」から選んだアンソロジーだという。『同級生交歓』(文春新書、→7/21条)は『文藝春秋』誌だったが、こちらは『週刊文春』。雑誌は読まないから、そうした連載があることなど知らなかったのである。
喫煙者、元喫煙者、非喫煙者とりまぜて、様々な世界の人びとによる煙草にまつわるエッセイが収められているが、やはり実際に吸っている人の文章が、煙草に対する愛着が感じられ、面白い。
良かったのは、煙草にまつわる失敗談や父母との思い出をしっとりと書いた「煙草事始」の先代尾上辰之助、煙草を愛する大音楽家たちのポルトレ「バックステージより」を書いた岩城宏之さんの文章、煙草の煙を好むパンダや、煙草を吸うチンパンジー、煙草の火を投げられてたてがみが燃えたライオンの話など、動物と煙草をめぐる奇談「動物とタバコ」の中川志郎さん、野武士集団西鉄ライオンズの選手たちの煙草との関わりを追想した「たばこは私の青春」の仰木彬さん等々。“物書き”を本業としない人の文章が意外に面白かったりする。
文末の執筆者略歴に、生没年と並んで「喫煙歴」という項目があって、なかなかこれもいい。いつも煙草をくわえているイメージのある市川崑監督のところには、(1936-2003)とある。あれれ、最近新作「犬神家の一族」の撮影風景が報道されたとき、監督は煙草をくわえていたような…。あれは勝手にイメージでそう思い込んでいたのかしらん。
池部良さんも(1933頃-2003頃)、三國連太郎さんも(1945-2003)、鈴木清順監督も(1943-2004)となっており、編者の野坂さんでさえ(1947-2003断煙)となっている。愛煙家の方々も、お年を召されるにつれ、煙草をやめる(やめざるをえない)ようになったのだろうか。
吉行淳之介さんの「けむりと灰」では、敗戦直後物資窮乏にあえいでいた日本人の煙草をめぐる愛おしみぶりがふりかえられ、実に味わい深い文章が綴られている。粗悪品のマッチが多くなかなか火がつかない。煙草を吸っていると、「火を貸してください」と寄ってくる人が多かった。

この火を貸すと、何ミリメートルか短かくなる。この正確な数字を計算した人もいるくらいで、これは冗談ではなく、大マジメなのである。その何ミリメートルが、身を切られるように辛い。そのころはタバコは物品でなく、むしろ精神に属するものであった。(116頁)
「精神に属するもの」というフレーズにしびれる。古い映画のなかで煙草を吸う人たちを見て憧れるというのは、まだ精神に属していた時代の煙草(あるいはそれを吸う人間)の聖なる姿を、本能的に感じ取るゆえなのかもしれない。
本書冒頭、編者野坂さんによる序は「煙草は人生の句読点」というタイトルで、そのように言われていることが紹介されている。してみればわたしの20代は、句読点だらけの細切れな安藤鶴夫のごとき文章であり、30歳からこのかた、一転して句読点のない息苦しく長々しい文章に変じてしまったと言うべきか。いや、吉田健一の文体のような30代と言い換えれば、少しは気が休まるか。