憤る川本三郎

日本すみずみ紀行

川本三郎『日本映画を歩く―ロケ地を訪ねて』*1(中公文庫)の文庫版での再読が例によって刺激的な読書体験だったので(→8/30条)、はずみがついてとうとうとっておきの本に手をつけてしまった。同じ川本さんの紀行文集『日本すみずみ紀行』*2(現代教養文庫)である。
現代教養文庫を出している社会思想社倒産の報を知り、あわてて池袋のジュンク堂に走って未購入本のうち関心のあるものを買い求めたのは2002年のことか。このなかに、田中小実昌さんの作品集3冊や、この川本さんの本が含まれていた。その後帯付きの状態のいい本を入手したので、たぶん手もとに2冊ある。ジュンク堂で買ったものは小口が削られており、不満だったのである。
その後書棚の“川本三郎文庫コーナー”に置かれたままで、ときどき手にとってはパラパラめくることをしていたのだが、読むまでには至らなかった。どうにももったいなかったからだ。しかし今回は川本紀行文の誘惑に抗しきれなかった。
「あとがき」を見ると、この本(1987年六興出版刊の元版)は快著『ちょっとそこまで』(講談社文庫、弥生書房の元版は85年)に次ぐ2冊目の「旅のエッセー集」だとある。『ちょっとそこまで』あたりまでは、旅というより散歩エッセイの名手としての色合いが強かったのに対し、本書で旅が前面に出てきたと言えようか。
その後読者に房総小旅行への憧れを抱かせる快著『火の見櫓の上の海』(NTT出版)を経て『日本映画を歩く』へとつながる。雑誌編集者竹内正浩さんによる文庫版解説には、「最近、月刊誌『旅』で、本書の続編とも言うべき「映画の舞台へ―野ゆき町ゆき海辺ゆき―」の連載が始まった」という一節がある。現代教養文庫版は97年の刊行だから、これがまとめられて『日本映画を歩く』となるのだろう。『日本すみずみ紀行』も『旅』に連載されたものであった。
してみれば『日本映画を歩く』から『日本すみずみ紀行』へと進んだのは、姉妹編を逆からたどったかっこうになるとはいえ、ごく自然な流れであったわけである。
本書には『日本映画を歩く』のようなロケ地探訪という目的はない。書名にあるように、日本の「すみずみ」を歩いた紀行文である。観光地化された町ではなく、ガイドブックにも書かれていないような知られていない町や、言葉の本来の意味での湯治を主たる目的とする鄙びた温泉地、一般の民家が宿を兼ねたような民宿しかない小さな離島など、地名を聞いたこともないような場所を目指し、川本さんは歩き続ける。
気になる場所があれば、接続の不便をもかえりみず途中下車も辞さない。観光客に見られることを予期していない町にこそまだまだ見るべきものは残されている。あらかじめ宿を予約しないで、降り立った町で中年男の一人客でも受け入れてくれる宿を探し、荷物を置いて町中を散策する。そして路地の奥に居酒屋を見つけてはカウンターに腰を落ち着け、その土地のおいしいものを肴にビールで一杯。
予約なしの旅だから、ハプニングにも遭遇する。ある西伊予の町の大きなホテルでは、観光シーズンでもない平日なのに、「満室です」と断られた。

私は旅するときはいつもジーンズにアルペン・シューズという格好をしているので、しばしばこういう〝門前払い〟を食う。しかし、この日のTホテルの客扱いはあまりに傲慢だったので、温厚な(!)私としては珍しく、「お客を外見で判断するな!」と思わず声を荒げてしまった。(145頁)
紀行文にかぎらず、川本さんの文章でこんなに激しい場面に出くわすことは滅多にない。こういう嫌なことがあっても書かないのが川本さんの良いところと思っていたが、よほど頭にきたのだろう。
しかしこの話にはちゃんとつづきがある。やむなく別の宿屋を探す羽目になった川本さんは、路地奥に「実に趣きのある古い和風旅館」を見つけ、おとないを入れるとあっさり宿泊を快諾してくれたばかりか、客が少ないからと上等の部屋に案内された。
聞いてみればこの宿は江戸時代からつづく由緒ある老舗なのだという。ホテルでの災いが転じて大きな福となった。感激した川本さんは芸妓を呼んでもらい、ビールを飲んでいい心地になりながら端唄を聞くのである。川本紀行文には珍しい劇的な場面だ。
山に囲まれた小さな町でいたるところに石壁と瓦屋根の家がある。近代的なビルはほとんどない。時間が江戸時代でとまってしまったような静かな町。日本にまだこんなところが残っていたのか。(221頁)
念願かなって自分の“名字の地”である山陰の川本町を訪れた川本さんは、次にかつて石見銀山で栄えた大森の町に足を伸ばす。そこでの感慨である。海外旅行の経験がなく、これからも一生海外に行く必要はない、そもそも自分の暮らす日本を知らないのだからと考えているわたしにとって、こんな文章を読むと、いっそうその意を強くするのである。いつの日かそうした静かな町を訪れ、次のような一夜を過ごしたい。
結婚式の客が帰ってしまうと、急にあたりは静かになった。波の音しか聞こえてこない。ひとりでビールを飲み、もってきたミステリーを一冊、読みあげた。(196頁)
【付記】まったく知らなかったが、この『日本すみずみ紀行』は、社会思想社倒産後、文元社という版元から2004年に単行本で再刊されたようである*3