井伏鱒二のモダン都市小説

仕事部屋

夏休みのうち一日使って、日帰りで仙台に行ってきた。実家のある山形からバスで一時間強。どうせ古本屋に行くのだろうと家族は同行を渋ったので、自家用車はやめバスで行く。いまや山形・仙台間のバスは、高速道路(山形自動車道東北自動車道)をすべて利用するのでJR仙山線より早く、しかも安い。高速バス路線ができた当初は鉄道のほうが安かったのだが、便数が増えるにつれバス運賃が値下げされ、いまでは断然バスがお得だ。当初より200円は値下げされたのだから、素晴らしい。
何のために仙台に行ったかといえば、家族が推察したとおり古本屋、萬葉堂書店である。年に一度は行かないと禁断症状になる。いまではメインの店となっている鈎取店は仙台駅から路線バスで30分程の郊外にある。仙台に住んでいた頃は車で簡単に行けたものだが、足がないと大変だ。もっとも、たまに行くからこそ、こんな乗り継ぎでも、懐かしい仙台の町をかえって楽しむことができる。
萬葉堂では何冊か本を購った(→8/17条)。気合いを入れて訪れたわりにたいして買わなかったけれど、まあ最近の古本度から言えばこれでも上等だろう。
そのなかでもっとも気に入ったのは、井伏鱒二さんの短篇集『仕事部屋』*1講談社文芸文庫)だった。いや、短篇集というより作品集か。表題作は300枚の長篇なのだから。
この文庫本は講談社文芸文庫によくあるアンソロジー的な個人作品集ではなく、かつて刊行された作品集のラインナップをそのまま文庫に移したものである。純粋な文庫化というべきだろうか。
収められている作品はだいたい昭和初期に発表されたものばかりで(単行本は昭和6年春陽堂刊)、全編に都市的なモダニズムが漂っている。そのあたり、一般的に知られている井伏鱒二の小説とは雰囲気が異なるだろうか。「蒲団屋の来訪」という短篇が『新青年』に発表された作品であることからも、おおよその性格がわかるだろう。
初の新聞小説(都新聞連載)だったという「仕事部屋」は自選全集未収録であり、その点でも単行本の形で文庫化されたのは意義あることだった。文庫版には、硲伊之助の装幀にかかる元版の書影や目次組みの見開きページなどが口絵として載せられ、一冊の書物としてのできばえも芸術品であったことがわかる。
都会的な風俗を取り入れた、あくまで軽い大人の恋愛小説といったおもむきの「仕事部屋」はその長さが災いしてか、正直言えばちょっと退屈してしまう。かわりに各短篇はなかなか面白い。木山捷平へとつながるほのぼのとしたユーモアと言うべきか、ナンセンスでありながら人間味のある笑いの空気がたちこめている。
なかでも好きなのは「風雨強かるべし」だ。中央線の電車を立川まで乗り過ごして帰る電車がなくなった主人公。おりしも風雨激しく、立川駅の「プラットフォム」にある警告板にはチョウクで「風雨強カルベシ」と書かれてある。自働電話室(公衆電話のようなものか)で出会った、これまた電車を乗り過ごした少女と二人で旅館に行き、一泊することにする。
でも主人公は宿泊代すら懐になかった。服がずぶ濡れになった主人公は、上着やズボンが明朝まで乾くかどうか心配になる。なぜなら乾いた服を屑屋に売って、その金で宿代と帰りの電車賃を得ようと考えているから。

――夜が明けたら、私はアイロンを借りて上衣やスボンの襞をのばし、それを屑屋へ売ろう。股引とワイシャツを着けただけの服装で朝の電車に乗っていれば、人々は私のことを失業していない労働者だと思うであろう。ワイシャツの裾を股引の内側に入れて着さえすればいい。私はワイシャツを肘のところまでまくって着ることにしよう。カラや、ネクタイも、屑屋へ売ってやろう。――
ええっ。立川から荻窪まで、ワイシャツと股引で電車に乗るのか。しかもワイシャツの裾を股引に入れておけば、周囲は「失業していない労働者」と見るのか。では失業者の身なりはどんなものなのだと疑ってしまう。
成り行きで同宿した少女は、主人公が起きたらすでにいなかった。宿代の割り前を主人公からもらいたいのだが、起こそうとしてもなかなか起きず不満を述べ立てた置き手紙というか、置き随筆をしていなくなる。熟睡中の主人公を観察しスケッチする置き手紙の文章も風変わりで味わいがある。こんなユーモアが、木山捷平小沼丹に受け継がれてゆくのだろう。