貶さないことの徳

シネマ今昔問答・望郷篇

購入以来机辺の目に入る場所に積み、時々めくるたび「ああ、早く読もう」と意を新たにするのだけれど、面白そうなのでもったいないという矛盾した理由と、映画関係の本は続けて読むまいという、よくわからぬ頑なな決め事のせいで、手つかずのままの本があった。和田誠さんによる映画談義『シネマ今昔問答・望郷篇』*1新書館)である。
このたびようやく意を決して読むことにした。たまに手に取り、開いたページの目についた部分だけ拾い読みしていたときには、すこぶる刺激的なのでひと息に読み通せそうな気がしていたのだが、いざ読んでみるとけっこう停滞する。
これはつまらないということではない。情報量がきわめて豊富なうえに、わたしの知らない外国映画を中心として語られているため、これらを無理に頭の中に入れようともがいた結果、読書スピードが停滞したとおぼしい。巻末に索引もあることだし、あとから振りかえることだって可能なのに、読んだときにできるだけ頭の片隅にひっかけておきたくて、無理に活字を詰め込もうとしたのだった。
もとより本書は同じ版元から先に刊行された『シネマ今昔問答』の続篇であり、そちらは読んでいない。本書『シネマ今昔問答・望郷篇』でも、初めて観た映画の記憶から、学生時代を経て、自ら映画監督として映画製作に携わるに至った和田さんの歩みが語られている。では前著『シネマ今昔問答』では、どんなふうに映画との関わりが述べられているのか、そんな興味を抱かないわけにはいかなかった。
日本映画についてもたっぷり語られているのだが、その数倍外国映画への言及が多い。どういう映画なのかわからないけれども、筋立てや俳優、技法について愉しそうに語る様子が行間からうかがえ、映画を観て愉しむというのはこういうことなのだと思い知らされるのである。批判は評論家に任せよ。誹謗中傷は映画ファンとしてあるまじき行為だ。素人ファンは映画を観て自分なりの見所を見つけ、それを愉しむ、それでいいではないか。
学生時代から映画好きだった和田さんは、評論を書きたいとは思わなかったのかという問いに対し、次のように答えている。

まったく思わない。学生時代に同級生と観てきた映画の話をするってのが楽しくて、それで充分だった。映画について書くのもその延長なんですよ。(168頁)
そういう気持ちが後年『お楽しみはこれからだ』につながる。しかし、ビデオが普及して誰もが名セリフを自分の目や耳で味わうことができるとなると、名セリフの語り部は不要になる。同時に、ビデオをチェックして、和田さんの記憶違いを指摘し詰問する読者が増えてきたのが、『お楽しみはこれからだ』を止した理由なのだという。
いっぽうで「間違えてもいいんだ。自分の記憶をそういう形で保存するのも映画ファンの権利だ」と擁護してくれる読者もいた。この発言ほど、素人映画ファンの立ち位置をはっきり示してくれるものはないだろう。和田さんの言葉ではないところで感心してしまう。
本書後半では、「麻雀放浪記」以後監督として映画に関わるようになってからの、それぞれの監督作品での苦労話や、監督を体験してからの映画に対する態度の変化など、興味深い話ばかりで前半の停滞にくらべ一気に読める。
ショックだったのは、「麻雀放浪記」で高品格さんが演じた出目徳の挿話。出目徳は高品さん以外いないと出演交渉したところ、心臓手術をしたばかりで坂道を転がることができないと断られたという。この場面はロングショットで代役でやると説得して、ようやく出演に応じたというのだ。
以前「麻雀放浪記」を観たとき、「転がり方の問題」と題し、ドサ健らに身ぐるみはがれ下着姿になった出目徳の遺体が、土手下の家に向かって土手の上から放り出されたシーンを称揚し、「ごろごろと転がり最後に家の前の水たまりにうつ伏せにバシャッと浸かる間合いの絶妙なこと。これも演技というのなら、高品格の演技に拍手。とともにこのシーンに無常を感じる」と書いた(→2004/12/9条)。
上の発言どおり、転がったのが高品さんご本人でないとすれば、そのシーンで高品さんの演技を褒めるのは見当違いも甚だしい。とはいえいいシーンには変わりないのだから、代役の人の演技に拍手を送るべきだろう。
また同じく「麻雀放浪記」において、跳ね上がった勝鬨橋をバックにしたシーンでは、明らかにロケでなく、背景映像に出演者が合成されていたのがわかって興醒めだと書いた。ところが本書を読むと、現実的に勝鬨橋を跳ね上げるには2億円かかると言われて断念した経緯もあったらしいが、映画ファンとしての和田監督は、あえて「こういう映画的な手法を復活させたいという気持ち」でスクリーンプロセス(スクリーンに映し出された背景の前で演技する)をわざと使ったという。「合成」ではないのだ。
それを理解せず「興醒め」とはあきれて弁解するのも恥ずかしいが、「映画的手法」を愉しむという次元に達していない人間が観るとこのような印象を持つということで、許してもらうほかないだろう。
映画を観る愉しみ、観た映画を語る愉しみは尽きない。誤解するのも、曲解するのも、間違って記憶するのも愉しみのうちとあれば、ますます映画の魅力にはまってゆくのは必定だろう。