江戸っ子の食卓

風の食いもの

池部良さんの文庫新刊『風の食いもの』*1(文春文庫)を読み終えた。『百味』誌に連載された初出から単行本を経ず文庫化された、いわゆる文庫オリジナル・エッセイ集である。
陸軍に召集され、兵営で食べた飯の話、南方に展開したさいに味わった南国の食べ物、米軍に食糧が爆破されたあとやってきた極端な窮乏生活、復員後映画界に復帰してからさまざまな機会に体験した珍味などなど、ひとくちで言えば“食味エッセイ”と呼ぶべき内容の本だ。しかしながら食味エッセイと断じるのも憚られる。
グルメでもなく、食べ物の美味しさを称揚しているわけでもない。食にまつわる人生の場面場面が池部さん特有のまなざしで切りとられ、独特の文章表現でわたしたちの前に提供されているのである。
「特有のまなざし」「独特の文章表現」とは何かと言えば、「江戸っ子」ということだ。先日読んだ『21人の僕―映画の中の自画像』*2文化出版局、→8/2条)でも感じていたことだが、池部さんの文章を読むと、この気脈が江戸っ子なのだということがよくわかる。
食べ物の話を書くにしても、正面から褒めそやさない。兵営や戦地において、蚯蚓を湯がいて食べたり、雑草を茹でて食べるといった体験談を書くにしても、憤りを表面にあらわさないから、悲壮感がない。むしろユーモアで悲惨な体験を包んでしまう。自虐的というか、露悪的なところがあり、落語のようなオチでたいてい話は締められるのである。
池部さんの父親は洋画家池部鈞。家族で食卓を囲む場面、父が食べ物と相対する場面などでは、洋画家という職業からはイメージできない、いかにも江戸っ子という話しぶり身ぶりが示される。池部良さんもこの父の血を少なからず受け継いでいる。
たとえばそんな池部さんの江戸っ子気質はこんな文章にうかがえる。

河豚で一杯と誘われれば、有難くお供することにしているが、胸にそんな黒雲が棚引いているのが辛い。だからと言って家内と差し向かいで食べるには河豚の身の味が濃すぎる。東京生まれの男が、粋に摘んで、はい雑炊で締めますと軽やかにやるわけにはいかないようだ。だから河豚を食べに行くというのは、僕にとって難しい業だ。うまいから食べたいのだが、気軽に食べられないと思い込んでいるところが我ながら口惜しい。(「面倒な河豚刺し」)
「そんな黒雲」というのは、河豚は高いが、御馳走になるから戴きますというさもしい気持ちになりたくない。知人から河豚を誘われれば「今日は俺が持つ」とつい虚勢を張ってしまう。そうすると知人からは水くさい、付き合いづらいと言われ疎んじられる。そんな複雑な心情を意味する。これぞ江戸っ子の粋なのだろう。
父池部鈞の江戸っ子エピソードも愉快だ。元日に家族揃って雑煮を食べようとしたところ、父はお椀の蓋を開けた途端、「ばかやろ、こんな雑煮が食えるか」とどなって蓋を食卓に叩きつけた。汁のなか柚子の皮が浮いていることが気にくわなかったらしい。妻(池部さんの母)がお正月らしい香りがしていいではないかと反論してからの応酬。
「らしい香りってのは、ほどほどだから値打ちがあるんだ。仄かにって奴だ。それが何だ。お前のでかい手の親指の爪ほどもある柚子の皮が入ってる。柚子臭くて、柚子臭くて、鰹節の栄養になりそうな、ほあとしたおふくろのけつ回りの匂いが消えちまって……」
「あなた!!! お母さんのお尻の臭いを嗅いだことあるんですの」(「感性の栄光のために」)
このおかしい応酬はさらにつづくが省略する。落語に出てくるような夫婦のこんな会話が生き生きと写しとられているから、読んでいて楽しいのである。ただ、池部さんにしろ登場人物にしろ、すぐ「失神」するのが玉に瑕。
池部さんは臭いがきつい食べ物や見た目にグロテスクな食べ物を目の前にすると、意識が朦朧となり、すぐ失神してしまう。実際失神してしまうわけではなかろうが、たびたび失神という言葉に出くわしてしまうと、その場面のインパクトが弱まってしまう。江戸っ子エピソードも同じく、池部さんの本はたまに読むのがいいかもしれない。