カラーチャートの端から端

さらば大遺言書

森繁久彌(語り)久世光彦(文)の『さらば大遺言書』*1(新潮社)を読み終えた。文庫に入ったシリーズ第一作『大遺言書』*2新潮文庫、→6/2条)を6月に読み、森繁さんの語りを久世さんがあの独特の彩りのある文体で書きとめた世界に魅了された。
そこでちょうど書店に新刊として並んでいた最終巻(四冊目)の単行本を先取りのかたちで買ってきて、文庫に続けて読もうと思いつつ、二ヶ月が経ってしまった。その反面、あれからまだ二ヶ月しか経っていないのか、もっと前のことではなかったのか、という時間感覚の麻痺に襲われている。
第一作の『大遺言書』は、まさに久世光彦による森繁久彌の聞き書という看板に偽りがない内容の本だった。といっても久世さんが陰に隠れているわけでなく、文章は紛うことなき久世さんのものであり、久世ファンとしても楽しめたのである。
そこから2冊(『今さらながら 大遺言書』『生きていりゃこそ 大遺言書』)飛ばして最終巻の『さらば大遺言書』を読んでみると、かすかに残っていた第一冊の記憶とは異なり、ずいぶん久世さんが前面に出てきているような印象を受けた。こちらは紛うことなき久世さんのエッセイ集といった雰囲気なのだ。
面白い本を読んだときにそれを勧める書評的、紹介的文章だったり、偏愛の人を取り上げた人物論だったり、自らの昔話だったり。そしてそれらの内容に応じたかたちで、森繁さんと交わったさいのエピソードがひょいとおまけのように連結される。
むろんこのことをもって「看板に偽りあり」と糾弾するつもりはまったくない。これはこれで久世ファンにとっては面白い本なのである。同じシリーズなのに、第一冊は森繁久彌色が強く、最終冊は久世光彦色が強い。まるでカラーチャートの端の色と端の色を並べ、「まったく違うじゃないか」と見くらべているような感じ。隣り合った色同士であればさほどの違いが感じられないけれども、端と端ではこんなに変化している。そんな色の変化を思わせた。
以上はまったく無責任なたとえであって、途中の“中間色”にあたる2冊目3冊目を読んでみなければ、これらがカラーチャートのごとく並んでいるのかわからない。予想どおり、森繁色から徐々に久世色が強くなってゆくのだろうか。いずれ読むときがある日を待とう。
「これが最終冊」ということをあらかじめ知り、左側の頁の厚みが減ってゆくにつれ、久世さんの命も終わりが迫っていることがわかっているから、減ってゆくことが辛く、目に入る文章の端々にその突然の死の予兆が散らばっているのではないかと気になってしまう。たとえば現在も連載中のシリーズ(小林信彦さんの『本音を申せば』など)を読むときとも、すでに連載終了が遠い昔の話となっているシリーズ(山口瞳さんの『男性自身』など)を読むときとも違う苦しさがある。
最後から二つ目の文章は「道連」と題された内田百間論である。大好きな百間の作品を取り上げ、あの世とこの世の境目に接したときの恐怖を論じる。最後の文章は「春が来たのに」という山本夏彦さんを回想した文章である。山本さんと久世さんには『昭和恋々』(文春文庫)という昭和懐古の素敵な共作エッセイ集がある。
久世さんはこのなかで、山本夏彦さんの人となりを懐かしく思い出し、山本さんより2歳年長の森繁さんと会わせてみたかったと残念がっている。山本さんが発刊した『室内』休刊にさいし、山本夏彦という人間の人生の幕の引き方に「終わりの美学」を見る。そこにはそこはかとなく憧れという感情が漂っているかのようだ。それが最後の文章になるとは。
「春が来たのに」は、こんな一文で締めくくられる。

私は今日も経堂のだらだら坂を駅へ向って歩く。坂道沿いの垣根に、藪椿が一輪、匂っている。
久世さんの突然の死による連載終了がわかっているゆえそう感じてしまうのか、この文章が一つのシリーズの幕引きとしてぴたりはまってしまっているのが悲しく、かつ見事である。