松竹映画史兼松竹映画人列伝

松竹大船撮影所前松尾食堂

松竹に関わった映画人の本を読んでいるとかならず目にするのは、大船撮影所の前にあったという松竹映画人御用達の食堂「ミカサ」「月ヶ瀬」「松尾」の名前である。先日来読んできた高橋治『人間ぱあてい』『絢爛たる影絵 小津安二郎』にもむろん登場する。このうち「月ヶ瀬」は小津監督が贔屓にした店で、そこの娘益子は佐田啓二夫人となる。中井貴恵・貴一姉弟の母親である。
その小津監督も戦前は「松尾」の常連だったようだ。松尾の看板女将であった山本若菜さんの著書『松竹大船撮影所前松尾食堂』*1(中公文庫)は、松竹の監督や俳優をはじめとする人びとのエピソードに事欠かない、楽しい本だった。
1年半前、雪の中訪れた横手のブックオフで手に入れた本で(→2004/12/12条)、同時に購入した道江達夫『昭和芸能秘録―東宝宣伝マンの歩んだ道』(中公文庫)は直後に読んだのに対し(→2004/12/18条)、本書は長らく積ん読の山の下で眠っていたままだった。
今回松竹関係の本を立て続けに読み「松尾」の名前が印象に刻まれたのをいい機会に、積ん読の山から掘り起こし、ようやく日の目を見たわけである。こういうきっかけを逃すと、いつ読めるのかわからない。映画関係書を連続して読むまいという自己規制はもはや形骸化しつつある。
著者の若菜さんは、後年「青山円形劇場脚本コンクール」に入選(鏡花原作の「鬼の角」)したというだけあって、文章が達者で、主として会話体で叙述される監督や俳優らとのやりとりには、その場の雰囲気を髣髴とさせる活きのよさがある。
妹の一人は木下恵介監督の弟で松竹映画の音楽を多く担当した木下忠司と結婚したり、もう一人は川島雄三監督と婚約寸前までいったりするなど、たんに映画人と食堂の人という関係ばかりではなかった。若菜さんご自身も、一時期大船撮影所長であった人物(狩谷太郎)との間にロマンス(不倫)があったらしい。本書でもあからさまではないが端々にそんな恋の成り行きをうかがうことのできる叙述が見え隠れしている。
また一時期食堂の二階に押しかけ強制的に間借りしていた川島雄三に対しては、とても好意的に接していたことがうかがえ、川島雄三ポルトレとしても極上の内容となっている。松尾食堂を撮影終了の打ち上げ会場として使うなど常連だった監督に木下恵介渋谷実がいた。しかし二人は仲が悪く、若菜さんにとっても渋谷監督は苦手だったらしい。渋谷監督は徐々に松尾から遠ざかることになるが、本書でもしつこく渋谷監督に対する恨み節が述べられている。
本書が魅力的なのは、前述したような川島雄三の挿話や、たとえば戦前の松竹三羽烏上原謙佐野周二佐分利信)について、「上原さんは紳士、佐野さんは洒脱。佐分利さんはむっつり屋。あんなにむっつりしていて、よくラブシーンができるものだと、首をかしげました」(24頁)のように切れ味鋭いスター像の一筆書きだったり、彼らの好みのメニューをあげてその人間性に迫ったりするという点だけでない。
とくに戦後の記述に入ってからは、叙述が編年体になり、毎年作られた映画の本数が数え上げられ、新人監督作品のタイトルが並べられる。つまりは“戦後松竹映画史外伝”とも言うべき内容となっているのである。その年その年にデビューした新人監督をあげ、彼らに関する思い出を語ることも忘れない。このあたり、たんなるエピソード集にとどまらない、本書の存在意義があると言っていいだろう。