小津映画への入り口

絢爛たる影絵

『人間ぱあてい』(→7/22条)の高橋治さんは、作家活動に入る以前は松竹の映画監督であり、また助監督時代には小津安二郎監督の代表作「東京物語」にもついていた。『人間ぱあてい』でも小津安二郎が取り上げられ、その独特なたたずまいに言及されている。
同じころ山形で入手した池部良さんの著書『21人の僕―映画の中の自画像』(文化出版局)を拾い読みしていたら、「早春」で初めて小津作品に出演した池部さんは監督から受けた壮絶なしごきで泣かされたのだという。池部さんは、東宝所属の二枚目俳優として松竹の小津作品に出演するという経緯によってひどい嫌味を浴びせられた。その嫌味のなかに東宝と松竹、さらにそのなかでの小津作品というものの性格が際だって示されているのである。
映画も倦まず観ていることもあり、映画関係の本をたてつづけに読むことは控えているのだけれど、このような小津安二郎という人物像に強く惹かれるものを感じ、同じ高橋さんによる評伝小説『絢爛たる影絵 小津安二郎*1(文春文庫)にとうとう手を付けてしまった。もう少し小津作品を観てからと思っていたが、我慢できなかったのである。
『人間ぱあてい』のなかで高橋さんは、『絢爛たる影絵』に書かれている小津安二郎像はすべて実像というわけではなく、高橋さんが接した小津という人物を基本に、フィクショナルに押し広げて書いた部分もあると断っている。『絢爛たる影絵』をまったくのノンフィクションと思い込むなかれというわけだ。
どこまでが真実で、どこからが虚像の小津なのか、また虚像にしても、いかにも小津の実像かもしれないと読者が納得して受け入れるために、著者がどんな工夫をほどこしているのか、そんなことを楽しみながら最初読んでいたのだが、読み進めるうち、そんなことはどうでもよくなってきた。話があまりに面白いからである。
本書は、北海道に滞在中の高橋治助監督に、会社から一本の電報が届いた場面からはじまる。「東京物語」についていた助監督今村昌平が母の急死で現場を離れることを余儀なくされたため、その代役として急遽高橋さんに召集がかけられたのである。
松竹には「小津の大船撮影所」「木下の大船撮影所」という二つのカラーがあったという。高橋さんと前後して松竹に入社した人びとのうち、高橋さんと篠田正浩監督は「小津の…」に入り、大島渚田村孟吉田喜重は「木下の…」に入ったという。とはいえ高橋さんが小津監督と一緒に仕事をしたのは「東京物語」が最初で最後であり、小津作品に対する姿勢も盲目的な賛辞ではなく、批判的な接し方だった。年齢を重ねれば重ねるほど、小津作品に対する理解が深まり、それが本書に実ったのである。
小津・木下は「両雄並び立たず」という関係にはなかった。とはいえ鋭い対抗意識も存在した。木下の『日本の悲劇』所内試写が行なわれたときの小津の態度とその日の日記が強烈だ。
本書では、小津・木下という対比だけでなく、小津が監督会の酒席で吉田喜重にしつこくからんだ(それを止めたのが木下)挿話に代表される、ヌーベルバーグの若手と小津との先輩後輩関係、また小津と溝口健二との交友関係、小津と原節子といった監督と俳優の関係、小津と野田高梧斎藤良輔といった監督と脚本家の関係、小津と厚田雄春宮川一夫といった監督とカメラマンとの関係が、それぞれの間柄をあらわす絶妙な挿話とともに語られ、読んで飽きさせない。
東京物語」に助監督として途中から参加した高橋さんが目撃した壮絶な撮影風景(大坂志郎が絞られる)や、奇妙な一体感があって外部者には違和感があったという「小津組」の雰囲気など、触れたいことは多いが、これはいずれ映画を観て本書をめくり返したときに譲ろう。
毎度同じことを書くようで恐縮だけれども、やっぱり松竹という組織は面白く、不可思議である。昭和29年(1954)に製作を再開した日活が太陽族映画で急成長したときの話。

しかも、日活攻勢の主力になったのは殆ど松竹の東西撮影所から日活に移籍した人間たちであった。松竹という会社は昔から不思議な伝統を持つ会社で、自社で育て上げた逸材を必ず社内にいにくくする。殊に監督にはその傾向が強い。映画監督として名を上げた人の七割は松竹出身者だといえば、他社の人が色をなすだろう。(…)その癖、他社の人材に手をのばしたがる。呼ばれて来た人が殆ど戦力にならない。なおかつ、懲りない。プロ野球に非常によく似たことをする会社がある。読売ジャイアンツなのだ。(252頁)
ジャイアンツと松竹、絶妙なたとえである。強固な伝統を誇りながら、現代になお生き残るために先端的なこともやっていかなければならない。伝統に支配されていることをひとつの理由として、他の組織には見られない不思議な規律があって、外側の人間はなかなかそれを理解してくれない。わたしの所属する組織に通じるような臭いがあるから、個人的な興味は、そのような組織に翻弄される人たちの人間模様にどうしても向いてしまうのである。