ヒトの見え方

悪女について

凶悪犯罪事件の犯人が、日常生活においてはごくふつうの、ともすれば善人であり、周囲の人びとは信じられない気持ちで事実を受けとめる。最近では凶悪事件が起こるたび、たいていそんなパターンなので、もはやそうしたギャップがあることは意外でもなんでもなく、「またか」と当然であるかのように感じる人が多くなっているのではあるまいか。
人間は誰にでも同じ顔を見せるような単純な生き物ではない。表の顔もあれば裏の顔もあるだろう。自分と向き合っている顔が、その人のすべてを語るものではない。自分がそうであるように、他人の心の奥にも底知れぬ深い闇が広がり、生まれてから現在までの時間の堆積がある。自分が見ている顔だけでその人を判断してはいけない。
だからと言って、深く付き合えば付き合うほど、その人のさまざまな顔がわかってくるかといえばそうでもない。たとえ親しくても決して見ることのできない顔はある。一人の人間の人生は事実の連続から成り立っており、事実は一つしかないものに違いないだろうが、他人からは見えない事実もあるし、同じ事実に対し異なる受け止め方をしている場合もあるだろう。また事実を嘘で固塗する場合だってあるはずだ。
目に見える部分だけで他人の全人格を決めつけてしまうのは、想像力の欠如以外の何者でもなく、やがては対人関係の破滅をまねく。これはわたし個人の反省でもある。想像力を養うためにはそれなりの人生経験を積まねばなるまいが、よく言われるように文学作品や映画はやはり想像力涵養のための大きな力になりうることは確からしい。
有吉佐和子さんの長篇『悪女について』*1新潮文庫)を読み、その意を強くしたのだった。以前新潮文庫の重版(復刊)本として出たさいに買っておいた本であり、わたしにとって本書が有吉作品の初体験であった。
購入動機となったのは、すこぶる魅力的な本書の構成にある。自殺か他殺か、謎の転落死を遂げた美貌の実業家富小路公子なる女性を主人公に据え、彼女の関係者27人に彼女のことについてインタビューした聞き書で成り立っているのである。富小路公子の「悪女の一生」を客観的な視点で叙述したものではなく、公子の立場から一人称で書かれたものでもない。血縁、姻戚、職業、交遊、使役と、公子との間で多様な関係を結んだ27人の人びとの聞き書を通して、公子のことが断片的に知らされるのであり、彼女の波瀾の一生が組み立てられ、悪女なのか善女なのか、いずれにしても魅力的でバイタリティのある女性の姿が立ち上ってくる。
八百屋の娘に生まれ、それを隠して夜学に通って簿記を修得し、かたわら宝石店やレストランのレジ打ちのアルバイトをする。複数の男性と交わり、ある男には妊娠を告げ結婚を迫り、別の男にはそれを隠し、また別の男には私生児として産むと告白する。いったい誰の子なのかわからない。結婚を迫られた男はそのつもりがなかったが、彼女はこっそり籍を入れており、別れたつもりで後年結婚しようとしたときに、すでに自分が結婚していたことを知らされる。
そうして莫大な慰謝料を払わされ、それを元手に宝石売買や土地転がしでぼろ儲けし、田園調布にホワイトハウスと見まごう豪邸を建て、日本橋の一等地にビルを建ててレストランや女性専用の会員制スポーツクラブといった多角経営を行なう。
清楚な側面と嫉妬に狂う側面、そんな多重性をもった女だが、相手には常に一面しか見せないから、彼女を恩人と崇め、死後の「悪女」という報道を真っ向から否定する人もいれば、報道以上の悪女ぶりを呪わしく語る人も出てくる。
実母も、長男も次男も、わが娘、わが母親に対してあれこれ談話を述べるが、それぞれ見方がまったく違う。肉親ですらそうである。どれが真実でどれが嘘なのか、いや、どれもすべて彼女の人生の事実の一面を切り取った断面に過ぎないのだろう。肉親の証言まで矛盾があるとなれば、富小路公子という女性像はひとつに結ばない。これはピントがズレでぼやけているのではなく、ひとつひとつの証言にもとづく彼女の像があまりにはっきりと像を結んで、他の像と激しい矛盾を起こしているという逆の理由によるものだ。
文庫解説の武蔵野次郎さんは、こうした本書の構成をミステリ的手法によったと指摘する。別に彼女の謎の死が物語の中心となり、それが解明されるという意味でのミステリではない。彼女の死は謎のまま残され、読者に解釈の余地が与えられる。一人の人間をめぐりさまざまな証言を積み重ね真相に迫ろうとする、それがミステリ的手法なのだろう。
やはりわたしはそんな凝ったつくりの小説に強く惹かれるとおぼしい。買うときに強く動かされ、いつか読もうと常に座右の目につく場所に置いてあったが、今回実家に帰るという機会を得て、この長篇を読み通すことができた。期待に違わぬ面白さを持った小説に満足し、有吉作品の強靱な構成力に舌を巻いたのだった。