星の翁に救いを求め

星三百六十五夜 夏

明日は七夕だ。天気はどうなのだろう。いずれにせよ最近七夕と聞いて夜空を見上げることもなくなりつつあるし、そもそも見上げても天気が悪かったり、晴れていても星の輝きが冬ほど鮮やかでなくはっきりしないことが多い。
織女星(ヴェガ)の右下に斜め長方形の星座(琴座)があり、日本ではこれを女夫星が夜に語らい合う瓜畑に見立てているそうだ。長方形のさらに下に赤い星ベータがあり、これは「食変光星」と呼ばれている。食変光星とは、見映えの面からいえば、一定の周期で明るくなったり暗くなったりする星であり、実際は二つの星(連星)が引力を及ぼしあってお互いのまわりを回っているという。琴座ベータは、明るい星と暗い星が12日22時間周期で回っているので、地球から暗く見えたり明るく見えたりするわけである。
琴座ベータの明るい方の直径は約50万キロで太陽の約三分の一の大きさ、暗い方は約3800キロで、二つの星の間の距離は480万キロある。互いに強い引力で引き合っているから、向かい合っている側は細長くなって、イチジクみたいな形になっているのではないかと推測されている。
と、以上の知識は、野尻抱影『星三百六十五夜*1(中公文庫)の7月17日のくだり(「ドーナツ星雲」)で述べられていることの受け売りである。野尻抱影はイチジク状連星について、「そんな奇妙な太陽の下に住んでいたら、どんなだろう?」と想像をふくらませている。
わたしはこんな抱影の想像力の飛翔のさせ方が大好きだ。現実的に宇宙人がいるかいないかといった問題を科学的に解明しようというわけではない。遠い夜空のはてにわたしたちの太陽と同じような恒星があって、そこに惑星があり、ひょっとしたら生物が住んでいるかもしれない。その人(と言えるかわからないけれど)たちの気持ちになって想像の幅を広げる。こんなロマンティックな考え方に強く惹かれる。
だからストレスが鬱積して逃げ場がなくなると、よく野尻抱影の本を開き、星々について書かれた文章を読んだりする。壮大な星や宇宙の話を読むと、ちっぽけなことでイライラし、悩んでいるのが馬鹿らしくなる。
琴座ベータ星の近くに、ドーナツ形の星雲があるという。「幅の広いリングの中心に、小さい星がぽつんと点じている」。科学的には、リングは星をつつんでいるガスの球の濃いへりで、このガスの球は、星が爆発し、超新星となって輝いた時に生じたもので、いまでも外へ回転しながら拡散しているので、いつか霧散する日が来るのだという。そして抱影はこう結んでいる。

しかも、この星雲までの距離は約二千六百光年というから、今見ているのは伝説の日本建国時代の姿である。現在どうなっているか判るのは、二千六百年後のことである。
星への距離を示す○光年の意味を初めて知った子供のころにおぼえた眩暈がよみがえる。あれは○年前の光なのだ、としたら、いまのその星の光はあと○年後でないと見ることができない。子供のときに感じた焦りとも恐怖ともつかない落ち着かなさ。抱影の本を読むとそれを味わうことができる。
『星三百六十五夜』は昭和20年代に書かれたというから、あれから60年、2600年後がたかだか2540年後になっただけ。いや、抱影が皇紀2600年を意識していると考えれば、2600年と2540年では大違いか。

*1:ISBN:4122005159/今回わたしが見ていたのは中公文庫元版の下巻。現在は書影にある中公文庫BIBLIO版の夏篇で読むことができる。