話芸の世界へ

地球の上に朝がくる

古本の世界に親しむようになって、20年になろうとしている。その間一定のモチベーションを保って付き合ってきたわけではない。執着心が薄れたときもあれば、狂ったように古本屋をまわり、買い漁ったこともある。これもまたバイオリズムのごとき波の上下があるとおぼしく、いまはちょうどその減退期にあたっている模様である。あまり古本屋に寄ろうという気持ちにならない。たとえ懐に余裕があったとしても、寄ったときに「この際だから」と買うことがない。
もっともこれが“古本離れ”を意味するわけではないことは、過去の経験からよく知っている。たんにそうした時期にあたっているに過ぎないのだ。そういうときは無理に古本を求めようとせず、周囲にたっぷり読まない本があるのだから、それらの本を読めばいい。読んだ本のなかからまた新しい関心が生じ、それを起点にまた古本ごころが疼きだすかもしれない。
手に取ったのは、池内紀さんの『地球の上に朝がくる―懐かしの演芸館』*1ちくま文庫)だった。ちくま文庫に新刊として入ったとき(1992年8月)に買って以来、ずっと未読のままだから、もう14年にもなる。
しばらく積ん読のままだった本書が気になるきっかけからも、けっこう時間が経ってしまった。最近本を読むにも映画がらみであることが多いが、今度もそうだった。去年の10月ラピュタ阿佐ヶ谷の春原政久監督特集で「親馬鹿大将」という柳家金語楼三益愛子が夫婦役をする映画を観た(→2005/10/9条)。二人の娘である由利みさをは、インターンをしながらダンスホールでトランペット吹きのバイトをしている小林桂樹と恋仲になるのだが、そのダンスホールに「あきれたぼういず」(益田喜頓坊屋三郎山茶花究)が出演しており、歌声を披露しているのを聴いて、高音で揃えたハーモニーにうっとり聞き惚れてしまったのである。その映画では歌のほか、「義経千本桜」のパロディも演じられていた。
噂に聞くあきれたぼういずの芸とはこういうものなのかと知った嬉しさも手伝ってか、しばらくあの高音が耳から離れなかった。とはいえ、探せばすぐ入手できるだろう音源を探そうとしなかった(それ以上深入りしようとしなかった)あたり、わたしの行動力の限界と皮相性(高まるだけ高まっても口だけ)を示している。
まあそれでも池内さんの『地球の上に朝がくる』を読んだほどだから、この関心がまったく消えたというわけでないことだけは確かだ。本書の書名に採られた「地球の上に朝がくる」は、川田晴久とダイナ・ブラザーズの持ち歌だそうだが、「あきれたぼういず」はその前身と言うべきなのか。映画で観たのは川田晴久が脱けた新生のグループであるが、芸の基本的なところはたぶんそう大差ないのだろう。

私には、これらいろいろと組み合わされた一連のリズムが、死ぬまで自分の頭の中と身体のどこかで響いているにちがいないといった気がしてならないのである。リズムの軽妙さ、セリフのわかりやすさ、とりわけハイカラさといったものだったろう。(28頁)
池内さんは、川田晴久とダイナ・ブラザーズの芸から、ことばで遊ぶたのしさ、「ことば遊び」の妙を教わったという。話芸の真髄はことば遊びにある。「耳で聴く」ことがもっともポピュラーな娯楽の方法だった時代、その時代が少年期にあたっていた池内さんのような人たちは、日本語の言語感覚を話芸によって磨かれてゆくことになる。
お手軽なことばの類型化と、型の組み合わせにちがいなかったが、ごくささやかな工夫一つで、まるで強力な磁石をあてられたように、ことばがいっせいに一つの方向に向きなおるとはどういうことか。のんびりとした調子にのせて「旅行けば、駿河の路に茶の香り」といわれただけで、どうして蜃気楼のような風景が立ちあらわれたりするのだろう?(107頁)
と訝りつつ、浪花節から「日本語法外な面白さ」をすくいとる。漫才の掛け合いの、純粋単純なことばのやりとりが、「使い手が皿のふちでコマをまわす曲芸師」のような芸当によってがらりと世界が変わる経験を味わう。
池内さんの本には、それを気にするきっかけとなった映画「親馬鹿大将」の主演柳家金語楼が奇しくも取り上げられている。その金語楼の芸を論じた「陽気な幽霊」という一文のなかで、金語楼を人気者にした兵隊落語について、軍隊用語のおごそかさがもつれにもつれてノンセンスの領域に達する様子が巧みにスケッチされている。文字で読んでいてもおかしい。
いま文字で読んでいてもと書いたが、本書巻末には「紙上録音」として三遊亭歌笑三升家小勝らの話芸が活字で再現されている。リーガル千太・万吉ミヤコ蝶々南都雄二のテンポのいい掛け合いが活字からも伝わってきて、電車で読みながら笑いをこらえていた。