黄金期映画界挿話の宝庫

風雲映画城

松島利行さんの『風雲映画城』*1・下*2文藝春秋)を読み終えた。本書は1992年に刊行されたもので、著者の松島さんは当時毎日新聞学芸部の編集委員という立場にあった。もともと毎日新聞夕刊に「用意、スタート! 戦後映画史外伝」のタイトルで90年から92年まで足かけ3年にわたり連載された文章をまとめたものである。
構成は、上巻に「嵐を呼ぶ日活」「松竹の新しい波」の2章、下巻に「勢ぞろい東映番外地」「東宝モダニズムの光と景」の2章が収められ、和田誠さんによるシンプルな装幀に飾られている。日活・松竹・東映東宝の四つの映画会社に即して、その戦後映画史のなかでの面白いエピソードを取材をもとに紹介した内容で、昭和40年頃までに切ってその盛衰が叙述されている。このうち東宝編は連載ではなく、書き下ろしとなっている。
日活・松竹が上巻で一緒になっているが、表裏一体として論じられるにふさわしい組み合わせであるようだ。そもそも日活は戦中に大映と合併させられ、戦後製作再開にあたり大映に所属していた元日活のスタッフが復帰することもあったようだが、多くは人材豊富な松竹からの引き抜きでスタートしたのである。
松竹は東宝のプロデューサー・システムと異なり、監督本位のディレクター・システムをとり、助監督は特定の監督について技術を学んでゆくという徒弟制的な体制だったことと、助監督が大勢たまっており、大学出の若い才能ある助監督たちは、上が詰まっていつ自分が監督になれるのかという閉塞感を感じていたという。何だかどこかの組織にもあるような話だが、このあたりの引き抜き話は何度読んでも面白い。
引き抜きについては関川夏央さんの『昭和が明るかった頃』(文春文庫)でも触れられていた。日活は西河克巳監督に白羽の矢を立ててまず彼を引き抜き、彼に松竹のなかから日活に移籍しそうな人材をスカウトしてもらうという方法をとる。そうして日活に移ったのが中平康であり、鈴木清太郎(清順)であり、斎藤武市であったという。
この時期の松竹にくすぶっていた助監督たちの場合、日活という「風穴」のおかげで、自らの活路を見いだすことができたと言えよう。逆に松竹でも、この時期一気に助監督が抜けたため、当初補欠だった山田洋次が正採用に格上げされたのが功を奏して、彼が監督する「寅さん」シリーズが松竹を支える結果となった。
松竹では、助監督を採用する試験は助監督自らが選ぶという伝統があったというのも興味深い話だ。ディレクター・システム下の松竹においては、監督はそれぞれ一国一城の主であった反面、その下で虐げられた(?)助監督たちは横の連繋を保って、団結して自分たちの権利を主張していたのだろう。
「松竹の新しい波」では、タイトルから予想されるように、いわゆる「松竹ヌーベル・バーグ」の時期が中心に取り上げられている。ここでは、篠田正浩監督が助監督当時、実質的な監督昇進試験のため、当時の松竹城戸四郎社長宅に呼ばれたときの話が面白い。
城戸社長から篠田さんは小津映画をどう思うか訊ねられた。これに対し「世界で類例のない映画になっている」と答えたところ、社長からは「世界に類例がないだと、あれはカメラは動かない、レンズも替えない、移動もしない。あれでは人間の心に近づいていかない。なにが小市民映画だ」といった憎悪に近い反論があった。裕次郎が出てくる時代に、あんな方法でいいのか」と問われ、小津映画を弁護する論陣を張った結果、無事監督試験にパスしたのだという。
たしかに石原裕次郎の映画をはじめとする日活アクション映画や、それだけでなく他社のごく普通のプログラム・ピクチャーに類する風俗映画(例えば大映若尾文子主演作品)などを見まくったあと、小津映画を観ると、異様な落ち着き方であることに驚く。その小津映画がいまや日本映画の最高峰として遇されているわけだが、同時代の評価は私が素朴に感じたこと、松竹城戸社長が篠田さんに向かって吐いた酷評に近いものだったのではないか。そうした両極端な作品の流れが、この当時両立しえたのだから、当時の映画界にみなぎる活気が推し量られるというものだ。
本書では大映編(ついでに新東宝編)が欠けているのが惜しまれる。「あとがき」には、いずれ書くつもりとあるが、実現されたのだろうか。これだけ挿話豊富な本であるのに、人名索引・作品名索引がないのも残念だ。自分で作成したいほどである。これからも映画を観るたび参照するため座右に置く本となることは間違いない。