もう少し小津映画を観てから

「東京暮色」(1957年、松竹)
監督小津安二郎/脚本小津安二郎野田高梧笠智衆原節子有馬稲子山田五十鈴中村伸郎杉村春子山村聰/信欣三/高橋貞二藤原釜足宮口精二浦辺粂子/三好栄子/長岡輝子桜むつ子菅原通済

この「東京暮色」については、「失敗作」だとか「暗い」、「有馬稲子がミスキャスト」といった評価を目にしたことがある。それらの評価を頭に入れてしまってから初めて今回観たわけだが、「そんなことはないではないか」という感想をもった。
「暗い」のはたしかに暗い。銀行監査役をつとめる笠智衆の家族はみな背中に何か重い荷物でも背負っているかのように沈鬱である。しかしこの暗さはイコール失敗ということにはつながらないのではあるまいか。小津映画のユーモアという点に着目すれば、この作品はたしかにそれが欠けている。これはやはり他の主要な小津映画を観てから今一度判断をするべき事柄なのだろう。
笠智衆の次女有馬稲子の役は、もともと岸恵子に当ててシナリオが書かれたのだという。でも映画を観ながら、もしこの役が岸恵子だったらと想像すると、やはり有馬稲子が良かったのではないかと思わずにはおれない。有馬稲子が持っている翳りが、母が記憶のない幼時に家を出て父親に育てられ、年下の恋人の子を身ごもったすえ堕胎し、また自分は本当に父親の子供ではないかもしれないという強迫観念を持って再会した母親を問いつめたあげく、自殺同様に電車に轢かれてしまうという重い役にぴったりのような気がするのだ。
京城支店に単身赴任中に妻が部下とできてしまい失踪し、その傷を隠しながら男手一つで娘二人を育て上げたあげく、愛情込めて育てたつもりの次女に死なれてしまう父笠智衆の悲しさ。学者の夫(信欣三)とうまく折り合わず、小さな子供を連れて実家に身を寄せている長女の原節子は、妹の死を目の当たりにして、娘をそんなふうにしたくないという一心で、夫のもとに戻る決意をする。娘の幸せを優先し、自己の幸せをなかば犠牲にするという心持ちだ。
逃げた母親山田五十鈴は、行き着いた満州で相手と死別し、新しい男(中村伸郎)と日本に戻って、東京五反田の税理士事務所の二階で雀荘を営んでいる。息子の死すら知らず、ようやくお互いを親子であると確認できたのもつかの間、有馬稲子は死に、焼香に訪れた彼女に長女原節子は冷たい。中村伸郎が室蘭で新しい職に就くので、一緒に北海道に旅立つ決意をする彼女は、もう二度と会えないかもしれないと長女に告げ、乗る電車の時間を教えるものの、原節子上野駅にやって来なかった。この山田五十鈴もいい。
結局この映画で後ろに暗い過去を引きずっていないのは、笠の妹で、有馬稲子に縁談の相手を見つけようとする杉村春子と、原の夫信欣三くらいだろうか。
脇役陣の使い方がなんとも贅沢な映画だった。笠が立ち寄る居酒屋の女将浦辺粂子や、笠の友人役山村聰、家族が全て家を出たあと家を任させる家政婦役の長岡輝子はワンシーンのみだし、深夜の喫茶店で一人でいる有馬を保護する刑事役の宮口精二もここのみ、有馬が死ぬ直前酒を出した定食屋「珍々軒」の主人藤原釜足も出演場面は二つしかない。でも藤原釜足を代表に、それぞれがそれぞれの場面でいなくてはならないというほどの存在感を発揮している。
気になったこと。有馬稲子の友人高橋貞二が、中村・山田の営む雀荘で、麻雀をやりながら有馬が妊娠するに至った経緯を誰かの声色を使って滔々と説明するシーン。声色と表現していいのかわからないが、当時(1957年)、こうした声色を聞いたら、「ああこれはこの人だ」とか、こういう立場の人の喋り方だといった共通認識があったものと思われる。いったい誰(あるいはどんな人、芸)を暗示するのだろう。ご存じの方がいたら教えていただきたい。
中村・山田の営む雀荘が五反田だったり、笠の家が「雑司ヶ谷の奥」だったりという、トポロジックな舞台設定が見事である。雑司ヶ谷の奥だという笠の家は、玄関を出ると前の道がゆるやかな下り坂になっており、その向うはまた高台になっている。いったいどのあたりなのだろうという、マニアックな心がかきたてられる。
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