長篇小説のたくらみ

のりたまと煙突

数年間にわたり読んだ本の感想などを書きつづけていると、読んでくださる方のなかには、いかにもわたしが読みそうな本だとか、読みそうな書き手についておおよそ見当がつくようになっているに違いない。「ああ、やっぱり取り上げたか」と感想をお読みになってほくそ笑む方もおられるだろう。
それはそれで、そう予想してくださることはたいへん嬉しいことなのだけれど、天の邪鬼なわたしのこと、あまり簡単に手の内を読まれるのも癪だから、「ええっ、こんな本を読むんだ」といった意表をついた本も、たまに読んでみたくなる。だからと言ってアトランダムに本を選ぶわけではない。たんに驚かせたいというよこしまな動機だけでなく、読む気をそそられるというのが第一の条件なのである。
そのときは意表をついたつもりで得意になっていても、時間が経ってからその前後を含め目を通していると、いかにもその本があるのが唐突な印象で、なぜわたしはこの本を選び、読んだのだろうと不思議に思うこともある。星野博美さんの本『銭湯の女神』(文藝春秋)はそのいい例だろう。
4年半前の2001年12月26日(→旧読前読後)に感想を書いているが、前後に読んだ本を並べてみると、嵐山光三郎『頬っぺた落とし、う、うまい』(ちくま文庫)、クラフト・エヴィング商會『ないもの、あります』(筑摩書房)、安藤哲也『本屋はサイコー!』(新潮OH!文庫)、結城昌治『死もまた愉し』(講談社文庫)、小林信彦『和菓子屋の息子』(新潮社)、五十嵐太郎新宗教と巨大建築』(講談社現代新書)、『百間随筆』、深町眞理子『翻訳者の仕事部屋』(ちくま文庫)、岡本嗣郎『歌舞伎を救ったアメリカ人』(集英社文庫)など、いかにもわたしが読みそうな著者、テーマの本が並んでいる。
上記の流れに『銭湯の女神』を置くと、どうしても違和感があり、たんにケレン味たっぷりに得意顔で意外性のある本を選んだのではなかったかという後ろめたさを感じてしまう。実際その後同書は文庫に入ったが、あらためて文庫版を買い求めるには至らなかった。
ところが今回、その星野さんの新著『のりたまと煙突』*1文藝春秋)を書店で見かけたとき、手にとったら面白そうなので買ってしまったのである。帯の背の部分に「4年ぶり/待望の新刊!」とあって、これは『銭湯の女神』以来の新刊という意味だろうから、そんな時間の堆積に感慨をもよおしたということもあるけれど、「遠ざかる昭和――/私たちは何を得て、/何を失ったのか?」という別の惹句にも関心が動いたのだった。星野さんはわたしと同年代(1歳上)だから、帯裏に抜き出されている言及語句(「本書に登場する「記憶」たち)に心動かされたということもある。
読んでみると、後者の惹句で想像(期待)されるような、昭和を回想させる懐かしアイテムをめぐるモノ・エッセイというものではない。「積極的に猫が嫌いだった」という著者が、ふとしたきっかけで部屋に野良猫を飼うようになり、最後には猫と離れては暮らせないほどの猫好きに変化してしまった姿を綴った私エッセイと言うべきだろうか。タイトルの「のりたま」は猫の名前である。
といっても、全編猫への慈しみを書いた愛猫エッセイではない。『銭湯の女神』と同じように、香港滞在体験を通した比較文化的視点で日本社会を切ったり、ファミレスという窓を通して日本社会を眺めたりという鋭い社会批評も健在で、また本書ではそのうえに、猫という動物を通しそのアナロジーで人間社会における諸事象を論じた視点も獲得されている。前著に同じく、いろいろな媒体に発表された文章を編集したエッセイ集のようでもあり、実際わたしはそういう内容を予想して買ったのであった。
わたしは動物好きでこそあれ「積極的に猫を好きになれない」タイプだから、猫のことが書いてあるエッセイ集だと知って、最初は失敗したかなと悔やんだ。ところが読みつづけてみると上記のように鋭い観察眼が光る文章があって飽きさせず、構成のうえでもなかなか面白い工夫がなされているので、最後まで面白く読める。
構成の工夫というのは、一篇一篇が短いエッセイを一年に見立てるように12の章に束ね、そうすることで時間の流れを意識させるようにしていることと、猫がメインのテーマでないエッセイについても、飼い猫との関わりがちらりとうかがえるような記述を紛れ込ませたりするなど、猫や家族といった複数のテーマを並立させながら、それらのテーマを縺れ合わせて、最後に猫嫌いの人間が猫好きに変貌するという大きな筋を示すことで、まるで長篇小説を読んでいるかのような満足感を与えてくれるのである。星野さんの書き方の特徴なのか、あるいは意図的なのか、短い一篇一篇にも、続篇を期待させる余韻のある締めくくり方のものが多く、このあとどうなってゆくのかという関心でページをめくる指が止まらなくなる。
エッセイのようでいて実は小説だなあと、まるで自分だけがこの本の価値を発見したかのように悦に入っていたら、読後版元のサイトにおける本書の紹介文に「長篇小説的傑作エッセイ」とあるのを知った。それに力を得て言えば、本書の売りは、短い雑文的エッセイの連なりと見せかけて実は長篇小説だという点にあると思う。新しい感覚の長篇小説として、何らかの小説賞を受けるに値する快作ではないか。
本書のなかでもっとも惹かれた文章を一箇所だけ引用したい。

小学生の時、塾で月野さんという女の子に出会った時、「私は月野になりたかった」といった。すると彼女は「私は星野になりたかった」といった。驚いたことに彼女は、月の野原に星がないことがずっと不満だったのだそうだ。高校三年生の時、今度は日野さんという男の人と知り合った。日野さんは、「俺は星野か月野になりたかった。日野は一番ロマンがない」といっていた。こういう姓を持った人は同じようなことを考えているものらしい。(142頁)
著者の星野さんご自身は、「姓に「星」という字が入っているせいか、自分には月が足りないという、他の人にとってはどうでもいいことかもしれないが、漠然とした欠落感を小さい頃から持っていた」という。良きにつけ悪しきにつけ、姓にロマンを持ち、それを通して世の中、あるいは他者にアプローチするという心の動き方が、とても素敵に感じられ、思わず付箋を貼りつけてしまったのである。