個人の記憶の再生

木もれ陽の街で

『東京人』6月号に掲載された川本三郎さんと小説家諸田玲子さんの対談「小説に描かれた、昭和の荻窪風景」については、以前映画「銀心中」の感想を書いたときにも触れた(→5/9条)。「銀心中」のなかで、宇野重吉乙羽信子夫婦が営む理髪店は空襲で焼かれ、敗戦後乙羽は焼け残った別の理髪店に住み込みで働いていた。それが阿佐ヶ谷にあった。川本さんによれば、中央線沿線では高円寺くらいまでが空襲の被害を受け、それ以西は三鷹中島飛行機工場を除き被害に遭っていないという。宇野乙羽夫妻の理髪店はしたがって高円寺辺にあったのだろうという推測である*1
それはそうと、この対談記事で、恥ずかしながら諸田玲子さんという小説家を初めて知った。吉川英治文学新人賞を受賞している方で、もともと時代小説家である。今回初めて現代小説の長篇『木もれ陽の街で』*2文藝春秋)を上梓し、それが対談の話題となっている。
諸田さんを知らなかったくらいだから、対談を読んで初めて『木もれ陽の街で』という小説の存在も知った。4月の新刊というので、慌てて大学生協書籍部を探したところ、案の定見つからない。近場の書店にも見あたらず、先日ようやく東京堂書店で手に入れた*3。カバーはクラフト・エヴィング商會のお二人(吉田篤弘・浩美)による瀟洒な装幀で、この二人による造本であれば、まず内容も信頼していい。
時代は昭和26、7年。主人公は荻窪の高台に住む23歳の女性。聖路加看護学校を出て丸の内の大手商社の医務室に勤務している。サラリーマンの父、主婦の母と妹一人弟二人という6人家族で、坂下に父の実家があり、そこには父の姉二人(いずれも独身)が住んでいる。父は八丈島出身の母親と半ば強引に恋愛結婚し、家を離れたため、荻窪の家は借家なのである。
物語は主人公の女性の目で感じ取られた荻窪の情景のなかに、幼なじみの友人父娘との交流、彼女の結婚話、近所で起きた不倫事件、一家心中事件が織り交ぜられ、箱入り娘として大事にされ、恋に積極的な感情を持っていなかった彼女のなかに次第に芽生えてくる熱い恋心とその挫折がみずみずしく描かれる。
対談での諸田さんの発言によれば、主人公の向かいの家で起きた、ある資産家の二号さんと子供の家庭教師である学生との不倫事件(二号さんが妾宅を追い出される)や、実直に見えた医師一家の凄惨な心中事件は事実なのだという。荻窪に住む人びとに丹念に取材を行ない、そうした事実が反映され、リアリティを増している。
戦前のたたずまいをそのままに残した、荻窪における昭和20年代の人びとの暮らしを、細部をおろそかにせず、またフィクションの部分でも一人の若い女性の感情の起伏を微細に描いた叙述にぐいぐいと惹き込まれた。そして川本さんは諸田さんの仕事に賞賛を惜しまない。

江戸時代から続いている下町には、歴史的な話がたくさんあります。歴史が浅い中央線沿線は、個人の記憶の再生がようやくはじまった。そういう意味で、諸田さんの新作は、非常に貴重ですね。
取材のおり、諸田さんは「戦争をどうやってひきずっているのかを知りたくて」荻窪界隈の人びとに訊ねたのだという。「わりとさらりとしているのが印象的」というほど戦争の記憶は薄く、逆に一家心中事件の記憶はやけに詳しいという荻窪の地域的特色が興味深い。空襲被害に遭っていないと、こうも地域の記憶に温度差を生じさせるのか。諸田さんは、主人公が恋心を寄せるデカダンな画家の男の口を借りて、こう言わせているが、それが諸田さんの荻窪と戦争記憶に対する関心の発露だろう。
「そういうことではないんだ。君の街は無傷で残った。君は叩きのめされはしなかった。ぼくも同じだ。しかしぼくは、君が叩きのめされなかったから羨ましいと言ってるんじゃない。そのことを恥とも負い目とも思わずにいられる君が羨ましいんだ」(240頁)
住む街が無傷で残る、叩きのめされずにすむ。それを恥や負い目と感じるかどうかが、この時期人間関係に微妙な影を落とす。戦争のとき、主人公の家のひと間には、住まいを焼け出された父の知人が大勢身を寄せていたという。そうした記憶こそ消えないものの、不倫事件や一家心中という卑近な大事件に影が薄くなる。先日半村良さんの『葛飾物語』を読み、戦争を挟んだ時期、葛飾の人びとの親類より濃い近所づきあいがもたらした人間のドラマにある種の感動をおぼえたわけだが、それとはまったくかけ離れた静かなドラマが同じ東京の別の場所でありえたのである。
主人公の女心、ひいてはこの小説には、通奏低音のによう与謝野晶子の激情的な一生と、そのなかから作られた彼女の歌が重なり合う。主人公が近所を散歩するときよく前を通る旧与謝野晶子邸は、対談によれば現在南荻窪中央公園となっているというし、戦前の雰囲気、本書で描かれた情景がいまなおよく残っているという。今度ラピュタ阿佐ヶ谷に映画を観に行った帰り、荻窪まで足を伸ばしてこの作品の舞台を歩いてみるのも悪くない。

*1:田宮虎彦の原作を読めば判明するかもしれない。

*2:ISBN:4163229205

*3:余談。東京堂には何度も足を運んでいるが、このとき初めてナマの坪内祐三さんを目撃した。「東京堂坪内祐三」に出会うことができ、感激。