年1冊の翻訳書から

博士と狂人

先日書籍部をぶらついていたら、平野甲賀さんの描き文字らしい文庫本が面出しして置かれていたのが目に入ったので、思わず手に取り確かめると、やはり平野さんよる装幀だった。この直感(の当たり)が購入の大きなきっかけとなった。もちろん、手にとってパラパラめくったら中味も面白そうだったので最終的に元の棚に戻さなかったわけだが。
購入し、さっそく読んだのは、サイモン・ウィンチェスター(鈴木主税訳)『博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話』*1(ハヤカワ文庫NF)である。あな珍しや、わたしが翻訳書(=外国人の著作)を読むなんて。調べてみると翻訳書を読むのは、昨年3月に読んだJ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(ハヤカワ文庫、→2005/3/17条)以来1年2ヶ月ぶりのこと。奇しくも同じハヤカワ文庫である。ことほどさように、わたしは翻訳書のたぐいは年一冊読めば御の字というところなのである。…などと自慢する話ではないか、これは。
OED、つまり“The Oxford English Dictionary”(『オックスフォード英語大辞典』)が世界最大の辞書であることは、英語をよく解さないわたしでも知っている。その編纂秘話のようなものも、何となく耳にしたことがあるような気がしていた。
日本語には小学館の『日本国語大辞典』がある。学問の世界に飛び込んだ当初、先生からは日本語を調べるときはまずこの辞書にあたれとアドバイスを受けた。以来ことあるごとにこの辞書のお世話になり、いまは先年刊行されたその第二版にひきつづきお世話になっている。お世話になるたびに、こうした辞書を作る大変さを身に沁みて感じている。
現在では“日国.NET”というオフィシャル・サイトもあって、利用者はウェブを通じて新しい用例を投稿することができる。それらがいずれは「第三版」に反映されるのだろう。ウェブのような簡単な情報通信手段がなく、また情報(用例)検索の手段も手作業に頼っていた当時、辞書はどのように編纂されていたのだろう、そんな素朴な関心も手伝って、読むに至ったのである。
OEDは編纂開始当初から、「篤志閲読者」と呼ばれるボランティアに用例収集を依頼するという画期的なシステムをとっていた。用例検索が及んでいない時期や分野を掲げ、それらの文献にあたって用例を検出してカード化してくれるボランティアを募ったのである。よく考えれば、現在のウェブによる用例収集のシステムだって、コンピューターの有無を別すれば、手法的にOEDのやり方と大きな違いはない。
OEDの編纂主幹マレー博士に対し、日々手紙で厖大かつ有効な用例を送ってくれる人物がいた。マレー博士はその人物に会おうと住所を尋ねたところ、そこは精神病院であり、当の人物はそこに収容されている患者だった…というのが編纂秘話中の秘話なのだろう。本書では伝説のようになっているこの二人(「博士と狂人」)の劇的な出会いは、実は語られているような劇的なものではなかったと真相を明らかにしている。
まあそれはともかく、たまにこうした異分野の本を読むと、ハッと気づかされることが多いから、翻訳書の文体が苦手だなどと読まず嫌いをすべきでないと反省させられる。英語辞書というものが作られたのはそれほど昔のことではない。18世紀になって本格的な辞典が編纂されたのだという。辞書という言葉のよりどころが存在しない世界というものを、容易にイメージできないのである。

たとえば、ウィリアム・シェークスピアが戯曲を書いたときも、英語辞書はなかった。めずらしい言葉を使ったり、ある言葉を普通は使われないような文脈のなかで使ったりするとき――シェークスピアの戯曲にはそういう例が非常に多いのだが――自分のしようとしていることが適切かどうかを確かめる手段がほとんどなかったのだ。(122頁)
つまり、よく使われる言い方をすれば、「何かを引いて調べる」ことができなかったのだ。まさにこの言い回しが、「辞書や百科事典などの参考書で何かを調べる」という意味で使われることは、文字どおり存在しなかった。(123頁)
この表現は一七世紀の末まで存在しなかったため、何かを辞書で調べるという概念も、当然ながらシェークスピアが作品を書いていた時代には存在しなかった。それは作家ががむしゃらに書き、思想家がかつてなかったほど深く考えた時代だった。(同上)
辞書がないのだからそうした状況であることは当たり前なのだが、あらためてその様子を突きつけられて愕然とする。わたしの場合、いまから500年ほど前の日本人が書いた記録や手紙を読み解くことを職業にしている。日本には室町時代に「節用集」と呼ばれる用字集が普及しつつあったが、これとてものを書くときいまのように頻繁に参照されていたわけではないだろう。事情は西洋と変わらなかったはずだ。
500年前の人が書いたテキストを辞書を引きながら理解した気持ちになっているが、それを考えると真に理解しているかどうか怪しいと感じるようになる。辞書にない言葉にぶつかると途方に暮れ、用字が異なると「当て字」と処理する。いわゆる「和漢混交文」を読んで、漢字の返り方がおかしければ、「まったく変な書き方をしやがって」と憤る。
でもよく考えれば、辞書がなければ、「当て字」も「誤用」も存在しないはずなのだ。社会生活のなかで受け継がれてきた書記方法のなかで人々は用字を選び取り、「がむしゃらに書」いていたのである。この想像図が間違っている可能性はあるにせよ、そんなありさまを想像するきっかけをもたらしてくれただけ、本書を読んだ価値はあったと言うべきだろう。