泉鏡花の論じ方

鏡花と怪異

このあいだ、久しぶりに歌舞伎を観に行った。正月以来だから、3ヶ月も間があいてしまった。歌舞伎を観るようになってこれほど間をあけたのは初めてのことだ。観たのは歌舞伎座の團菊祭五月大歌舞伎の夜の部。三津五郎時蔵による義太夫味たっぷりの「吃又」を堪能し、配役をわざと入れ替えたのではないかと邪推をさせる菊之助の「保名」と海老蔵の「藤娘」も良かった。ちょっとおふざけが過ぎるのではないかと思わせる「黒手組曲輪達引」も、菊五郎の正反対な二役から初演の小團次を想像し、黙阿弥の作劇手法を愉しんだ。
すでに7月の演目チラシができあがっていて、それを見てちょっと驚き、かつ興奮をおぼえたのである。例年7月は猿之助率いる澤瀉屋一門が受け持っていたが、丈が病に倒れて以来、玉三郎がプロデュースしたり、蜷川歌舞伎が代わりに上演されるようになった。
今年は玉三郎プロデュースで、澤瀉屋一門を中心とした座組により、昼・夜ともすべて泉鏡花原作の作品を上演するのである。昼が「夜叉ケ池」「海神別荘」、夜が「山吹」「天守物語」。「海神別荘」「天守物語」は玉三郎海老蔵共演だから、さぞかしたくさん客が入るに違いない。
海老玉の「天守物語」だけであれば以前観たことがあるから新味はないのだけれど、昼夜全演目鏡花作品という趣向が玉三郎らしくて面白い。個人的には、澁澤龍彦が好きだと公言しているものの、何度原作を読んでもその面白味がわからないでいる「山吹」に興味を持っている。ひょっとしたら上演されたものを観れば、「山吹」観が変わるかもしれない、と。
そんなこんなで泉鏡花という名前が頭にあったおりもおり、田中貴子さんの新著『鏡花と怪異』*1平凡社)を目にしたから、手に取らないわけにはいかなかった。装幀の感じもいいし*2、目次を見ると、「第六章 モダン東京に怪異あらはる」なんて章タイトルがそそる。好きになれそうでテキストは持っているものの、いまだほとんど手つかずのままという鏡花作品への関心と、七月歌舞伎への助走のつもりで購うことにした。
本書は、近代文学研究のなかで人気があるにもかかわらず、意外にその柱となるべき怪異小説に言及したものが少ないということに着目した田中さんが、真正面から鏡花の怪異小説を取り上げ、鏡花にとって「怪異」「お化け」とは何だったのか、考えようとした本である。
一読、あらためて鏡花の作品はわたしに向かないのかもしれないと思った。作品の要約文を読んでも、すんなり頭の中に入ってこないのである。これは要約した田中さんが悪いのではなく、鏡花作品そのものが、ひょっとしたら肌に合わないのかもしれない。とはいえやはり最初に気になった第六章「モダン東京に怪異あらはる」は知的興奮を誘う。東京という大都会のなかに怪異を登場させた諸作品を取り上げ、一貫して怪異好きだった鏡花の別な一面を明らかにしたもので、ここに紹介されている東京を舞台にした作品は少なくとも読みたくなった。
通読して感じたのは、叙述の方向が「鏡花好き」の読者に向いているのではなく、鏡花研究者、ひいてはアカデミズムに向いているのではないかということ。学術書に慣れていない人は戸惑うのではないか。
なぜこんな書き方をしているのか訝りながら「あとがき」までたどり着いたら、その疑問が氷解した。よく考えてみれば、田中さんは近代文学を専門にやられているのではなく、前近代の古典文学研究者だったのだ。「怪異」というテーマでは一貫性があるかもしれないが、時代的にいわば「畑違い」の分野に乗り込んでくるうえで、田中さんは丹念に先行研究を読み込み、それらに敬意を払いつつ、既往の研究では明らかにされていない点について、自説を展開している。当たり前の姿勢なのだが、一般書として読もうとするとちょっと面食らってしまう。
近代文学の研究者としての方法論が発揮されているのが、終章「鏡花にとって怪異とは何だったのか」だろう。ここでは『草迷宮』の典拠になったとされている「稲生物怪録」について、鏡花の時代に流布して見ることが可能だった諸本の存在をテキスト伝来に注意しながら検討し、また『草迷宮』と「稲生物怪録」に書かれた怪異を比較検討したうえで、実は鏡花が見たのは、よく知られている「稲生物怪録」ではなく、「稲亭〜」という別系統の本だったと推測している。このあたりが一番面白かったなどと書くと、本来のテーマである「怪異」とはかけ離れているので嫌味のように聞こえてしまうが、趣味嗜好の問題だから致し方ない。
ところで序章のなかで田中さんは「作品があまり文庫本になっていないからだろうか、鏡花の豊饒な世界を手軽に手に取る機会は、現代人にとってなかなかない」(7頁)とする。種村季弘ファンとしては、いやいや種村さんが編んだちくま文庫の『泉鏡花集成』があるではありませんかと言いたくなる。本書の参考文献としてあげられている種村さんの仕事は、河出書房新社の『種村季弘のネオ・ラビリントス8 綺想図書館』*3だけで、たとえば『泉鏡花集成』各巻末の解説などにはまったく言及されていないことに、寂しさを感じないわけにはいかなかった。

*1:ISBN:4582833276

*2:装幀は間村俊一さん。装画は小村雪岱の「湯島夜景」。

*3:ISBN:4309620086