「物書き」の旅考

迷惑旅行

山口瞳さんの『迷惑旅行』*1新潮文庫)を読み終えた。本書はドスト氏こと関保寿さんと同行しての紀行文集であり、同種の紀行文集として『なんじゃもんじゃ』(角川文庫)・『湖沼学入門』(講談社文庫)がある。
わたしはこの種の紀行文集にかぎらず、「男性自身」シリーズもまた、山口さんの著作を新しいほうから遡って読んでいる。最初から意図していたわけではないけれど、読むものを選んでいるうち自然とそうなってしまったので、どうせならそういうことにしようと決めた。
紀行文集、もしくはそれに類する作品で既読のものをあげれば、読み終えた順に『新東京百景』(旧読前読後2001/10/3条)、『酔いどれ紀行』(同2003/2/13条)、『草競馬流浪記』(同2003/9/28条)となる。それぞれ印象深い紀行文集だった。
このうち『草競馬流浪記』を読みながら、「山口瞳紀行文論」というテーマが頭のなかに小さな泡のように浮かび上がってきた。それは、「僕、紀行文を書くときは、出発前からタイトルが出来ている」という一節に触れたゆえである。このくだりを材料に、以下のように考えを進めることができる。

事前に何パターンか用意するとはいえ、事前にタイトルを用意しそのあとに旅を実行にうつすということは、タイトルのなかにはめ込むような縛りを自らに課して旅することになる。書くこと先にありきで、旅は頭に描かれたタイトルに合致するように実行される。もちろんハプニングもトラブルも生じようが、それはそのとき、プライベートは除き、紀行文として結実した山口瞳の旅とはすべてそういうスタイルだったのだろうか。
以上は「山口瞳の会」の会誌『山口瞳通信』其の肆に書かせてもらった拙文「タイトル学入門」の抜粋である。つづけて「右の問題は山口瞳の旅のスタイル、および紀行文のスタイルを考えるうえで重要な切り口になりそうである」と書いてから約2年が経過してしまった。ようやく今回、そのテーマを考えるための一歩を踏み出したと言えようか。
このテーマを念頭に置いたうえで『迷惑旅行』を読み始めたものの、読みながら混乱を来し、テーマ放棄も選択肢に入るようになってしまった。理由の第一は、既読の紀行文集、つまり本作品以後に発表された紀行文にくらべ、いまひとつ興趣をそそられなかったことである。それと密接に関係するが、この紀行文があまりに「構えた」文章になっていたことに脂っこさを感じたのが理由の第二点。
「構えた」というのは、別の言い方をすれば、「作った」「自然体でない」ということにもなる。むろんこれは既読の紀行文集にくらべてという相対的なもので、もとより山口さんの紀行文集が「自然体でない」ことは承知している。でなければテーマに縛りをかけた『草競馬流浪記』『新東京百景』ははなからつまらないとなってしまう。
「構えた」文章だって、山口さん特有のものだと言えるのかもしれない。この傾向が紀行文集にかぎらず、エッセイも含め全般的に、古くなるにつれ、つまり初期のものになるにつれ顕著になってゆくものなのか、これまた別に考えなければならないだろう。
おそらく実像と大きくかけ離れてはいないのだと思われるが、自らを極端な飛行機嫌いにし、連載担当者のパラオ氏を、それを端で見ながら楽しむような(旅を心配しているようでハプニングを期待しているような)、多少意地の悪い人物として造型する。パラオ氏やドスト氏にかぎらず、旅先で二人に過大な歓待を行なう少餡氏も、その他旅先で出会う人びともそう。要は人物像、さらに旅先での出来事を入念に彫り込んで、彫りが深くなりすぎていやしないかと、それにくどさをおぼえたのである。
本書文庫版巻末の沢木耕太郎さんによる解説は、入魂の、そして卓抜な山口瞳論である。これを読んで上記のように感じた理由がわかった。沢木さんは山口さんの紀行文集に共通する特徴として四点あげており、その第二として、「避けがたく「物書き」の旅になっている」点を指摘している。
ひとたび「物書き」になってしまった以上、さりげない旅などできはしないのだ。「物書き」は「物書き」としての旅以外のものはできない。有名無名、顔が知られているとかいないとかの問題ではない。(…)「物書き」には、当り前の旅行者が持っている、旅そのものが目的というところからくる切実さが欠けているのだ。「物書き」が紀行文においてさりげなさを装うことは欺瞞にすぎない。
沢木さんはさらに、山口さんが「旅先の人々の歓待にへとへとになるまで応え、疲労困憊して帰ってくる」、「物書き」としての役割を敢然と引き受ける姿に独特の潔さを見いだしている。
この沢木説を参考にすれば、『草競馬流浪記』『新東京百景』などは“「物書き」の旅”というふるまい方、表現方法が完成しているのに対し、本書『迷惑旅行』はその立場にぶれがある、つまり「さりげない旅」への憧れが残っているような気がしてならない。沢木さんが本書を指して潔さを指摘したことと正反対の捉え方になるけれども、わたしの違和感はそう説明するほかないのである。
本書を山口瞳という「物書き」の旅として割り切って読めば、他の作品同様変わらない山口節に接して愉しめること請け合いなのだ。こんな文章に山口さん独特のリズムを感じ、酔わされるのである。
 北上川というのは、何か、こちらの気持ちを掻き立てるようなところがある。
 ほかの川では、そうはならない。たとえば利根川は、茫漠としていて、淋しさだけが際立つように思われる。雑駁な感じもある。工業用水とは治水という文字が浮かんでくる。そこへゆくと、北上川は、私には、情感と言っていいようなものが加わってくるのである。(178頁)