文六先生は忠太ぎらい

ちんちん電車

通勤電車本として読んでいた安藤鶴夫(文)金子桂三(写真)『寄席はるあき』*1河出文庫)を行きで読み終えてしまったので、帰りの電車では、窮余の策でその日購入し鞄の中にあった獅子文六『ちんちん電車』*2河出文庫)を読むことにした。
『寄席はるあき』も『ちんちん電車』も、奇しくも同じ河出文庫である。二重の意味で感慨をおぼえた。ひとつは『ちんちん電車』が文庫に入るとは…という獅子文六ファンとしての嬉しさ、いまひとつは、安藤鶴夫の本や遡れば正岡容の本(『小説圓朝』。ただし未読)、また色川武大吉川潮作品を文庫にし、とうとう獅子文六も文庫にするとは、河出文庫も変わったなあという感慨である。
澁澤龍彦種村季弘両氏の著作や稲垣足穂南方熊楠中野美代子さんらの著作を次々に文庫に入れてくれた往時の河出文庫に対する期待感が、ひところすっかり薄れてしまっていたが、自分の嗜好の変化とともに、ふたたび河出文庫のラインナップが関心の網に引っかかるようになってきた。自分も変わったし、河出文庫も変わったということか。
『ちんちん電車』元版それはともかく、『ちんちん電車』は懐かしい。この本の元版(朝日新聞社刊)を読み感想を書いたのはいまから4年半近く前のことになる(旧読前読後2001/9/10条)。獅子文六作品に関心を持ちはじめてまもない頃ではなかったか。文庫版は元版のシンプルな装幀の雰囲気(写真参照)をうまく受け継いでおり好ましい。
本書冒頭「なぜ都電が好きなのか」の最初に、自作『バナナ』で、主人公を都電好きという設定にしたことに触れ、これは作者の嗜好を反映させたものであると吐露している。この間『バナナ』を読み、その映画化作品(主人公は二代目尾上松緑だった)も観たほど、獅子文六作品に近しく接するようになった。さてそれでは、初読と今回の再読において、本書に対する感想はどのように変わったのか。目の付けどころに変化はあったのか。
初読のおりの感想をふりかえってみると、本書を古本で購入するきっかけとなったのが、安藤鶴夫さんの『ごぶ・ゆるね』(旺文社文庫)に収められていた本書の書評だとある。安藤鶴夫から『ちんちん電車』へという流れは再読の今回も繰り返された。何たる偶然。いまアンツルさんの書評文を読み返しても、『ちんちん電車』を読まずにはいられなくなる名書評であると感じる。
再読の今回、獅子文六のちんちん電車に対する偏愛ぶりはもちろんのことながら、それ以上に印象に残ったのは、ちんちん電車に乗った思い出にのせて語られる明治東京のたたずまいであった。ちんちん電車が結ぶ町町がそれぞれ「ここは○○の町」とでも言うべき特色を有しており、現代になるにつれ、そうした特色が稀薄になって均質化してしまっている。
たとえば日蔭町。

露月町の裏通りは日蔭町。古着屋の町として有名だった。三田の学生も、親から外套を買う金を貰って、使い込むと、ここへセコハンを買いにきた。〝日蔭町〟といえば、古着の代名詞だったが、やがて、神田の柳原に移り、今では、浅草ということになった。(65頁)
日蔭町といえば古着屋の町。この事実については、以前読んだ殿山泰司さんの『三文役者あなあきい伝』(ちくま文庫)でも同様の思い出が語られており(→2/12条)、気になっていたのだった。殿山さんもまた獅子文六と同じく、古着屋の町として日蔭町のほか神田柳原もあげている。
また黒門町
とにかく、古い黒門町であって、以前は、黒焼屋が軒を並べていた。今の人はイモリの黒焼というものを知らないだろうが、催春剤なぞより、もっと高尚な作用を及ぼす薬である。(…)そんな黒焼を、大きな看板を出して、黒門町で売ってたのである。少なくとも、十軒ぐらい黒焼屋があって、どこも元祖を名乗ってたが、今度、電車の窓から覗いてみると、たった一軒、総元祖という黒焼店が残ってるだけだった。黒門町も大きな特色を失ったわけである。
 やはり、古風な街のせいだったのだろうが、黒焼屋の外に、浮世絵の専門店も、かなり多かった。昔の絵草紙屋とちがい、また、外人対手のスーブニル屋ともちがった、シッカリした店で、所蔵も多かったのだが、いつの間にか、姿を消してしまった。(115-16頁)
言うまでもなく、神田神保町が古本の町として有名であるが、それに肩を並べるほどに特色を持った町がいまいくつ東京にあるだろう。日蔭町=古着、黒門町=黒焼・浮世絵という地域的特長について、たとえば日本歴史地名大系13『東京都の地名』*3平凡社)を調べてみる。
日蔭町については「日蔭町一丁目」(現港区新橋二丁目)の項に「日蔭町の辺りは昔から古着屋が多く、明治時代には柳原(現千代田区)と並び称される古着屋町であった。商品は「日蔭町物」などとよばれたという(新撰東京名所図会・芝区誌)」とあるものの、黒門町の項(「上野新黒門町」「上野東黒門町」「上野西黒門町」)には黒焼の「く」の字も、浮世絵の「う」の字もない。むかしの人ならば誰でも知っている知識ではあったが、このようなかたちで書かれていなければ、忘れ去られてしまう史実ではあるまいか。
ところで三田近くの「札の辻」という停留所付近の思い出として、次のようなことが書かれてある。
懐かしいなぞとは、今の感情であって、当時の浅野邸は、大変目障りな建物だったのである。浅野総一郎浅野セメントと東洋汽船の社長で、成金で、あまり評判のよくない人だったが、電車道からの丘の上にかけて、どエラい邸宅を建てた。お手のもののセメントで、エンエンたる高い塀を築き、門は石造りで、二本の柱の上に、金のシャチホコを載せたのである。中学生の私が、軽蔑の念をもって、その門の前を通行したくらいだから、よほど、悪趣味の評判が高かったのだろう。(48頁)
この「浅野総一郎邸」というのにひっかかってあれこれ調べていたら、この邸宅はかの伊東忠太によって設計されたものであることが判明した。だから浅野邸にひっかかったわけか*4。同邸の竣工は明治42年藤森照信さんの『日本の近代建築(下)』*5岩波新書)の24頁に母屋の写真が掲載されているが、伊東忠太らしいというべきか、玄関は神社仏閣の唐破風構えの堂々たるもので、金閣のごとき三層の高楼まで設けられている。忠太好きとしてはただただ面白い建物だとワクワクするけれど、ある人から見れば「どエラい」「悪趣味」以外の何物でもないのだろう。
獅子文六はこういう大仰な建物が嫌いなのだなとほくそ笑みながら読み進めていたら、後半のほうで今度は次のような文章に出くわした。浅草の東本願寺を訪れた内容である。
しかし、寺院変じてビルとなるというのは、今の東京で、驚くほどのことでもないから、菊屋橋へ急ぐことにしたが、その途中に、東本願寺が、コンクリート建てになって、頑ばっていた。どうも不信心で、戦前のこの寺を訪ねたことはなかったが、築地の本願寺より、境内は狭い代りに、建築が業々しくないのが取柄である。(142頁)
電車のなかで読んでいて、思わず顔をほころばせてしまった。なにせ「建物が業々しい」と苦言を呈された築地本願寺の設計は、またしても伊東忠太なのだから。獅子文六伊東忠太が設計した建築物の異様な雰囲気がお気に召さないらしい。
再読で「獅子文六伊東忠太嫌い」を発見したのは、『ちんちん電車』の感想として適当なのかどうかわからない。もし将来三読するときがあったら、どんな発見があって、どんな感想を持つのだろう。また5年後くらいに読む機会があればいいな。

*1:ISBN:4309407781

*2:ISBN:4309407897

*3:ISBN:4582490131

*4:ちなみに浅野総一郎夫妻の墓も伊東忠太の設計にかかり、伊東と同じ総持寺に葬られている。

*5:ISBN:4004303095