見過ごしたものは見つけられるか

美術館感傷旅行

先月水戸を訪れたときには(→3/19条)、偕楽園に咲き誇る梅と帰りの電車の中で呑んだビールの酔いでよっぽど気分がおおらかになっていたのだろうか、帰りに途中下車して立ち寄った柏の古本屋にて、財布の紐をゆるめていろいろな本を買ってしまった。
そのなかに、海野弘さんの『美術館感傷旅行―45通の手紙』*1(マガジンハウス)があった。もとよりそういう本があるということは知っていたし、古本屋で何度か見かけたこともあるはずだが、気持ちが大きくなっていたことも影響してか、はずみで棚から取り出し、パラパラとめくった瞬間、購入を決意してしまった。
というのも、本書がたんに日本全国にあるミニ・ミュージアムを訪ね歩き紹介したという内容にとどまらないことを知ったからで、もちろん売価の予想以上の安さ(定価3200円に対し古書価1000円だった)もあったが、なによりその文章のスタイルがそのときの「古本買い気分」のツボにぴたりとはまってしまったというのが大きい。
文章のスタイルというのは、ひとつひとつの章が、「君」という相手に宛てた書簡のなかで、美術館のたたずまいや展示作品を紹介・批評するというかたちになっていることである。たんに海野弘という評論家が美術館を訪れた探訪記となっているのではなく、海野さん自身と重なる「私」という仮定の人物が、「君」という別の人間に向かって語りかけ、そのなかに美術館・絵画などに対する感想が織り込まれるという複雑な構造にしびれてしまったのだった。
ある個人の美術館・絵画に対する感想が、何の衣もまとわない「印象批評」としてさらけ出されるのではなく、私信という枠組みのなかで語られることで、印象批評が言ってみれば独断的な批評として活字になることを許される。プライベートな書簡を読むことをとおして、二者間のコミュニケーションという枠組みのなかで語られる批評を、読者はなぜかやんわりと受け入れてしまう。そんな海野さんのたくらみを感じたのである。
もっとも海野さんが本書のもととなる連載を雑誌『鳩よ!』に連載するにあたり、そうした意図ではじめたものかはまったくわからない。少なくとも「あとがき」ではそのような意図は書かれておらず、別のこんな意図が語られている。

手紙のスタイルにはいくつかのねらいがある。まず、美術の話というのはどうしても専門的であり、私なども自分中心に書いてしまうのであるが、手紙となると、相手にわかるように意識しなければならない。また私的な感じが親しみやすい雰囲気を与えるだろう。気恥ずかしいが、思いきって、感傷旅行にしてみた。
「自分中心」の弊を免れんために、もう一人の人物を設定し、距離を置いて対象を語る。語られる内容は煎じつめれば「自分中心」の批評に他ならないのだけれども、見事にそれが回避されている。
それぞれの手紙のなかで呼びかけられる「君」は一人の人物に特定されない。かつて親友同士であったような男性だったり、また恋人同士であったことを推測させるような女性だったりするとおぼしい。場合によってはすでにこの世にいない人もいるようだ。かつて共通に愛好する芸術作品について語り合った日々を、美術館を訪れた旅先から回想しながら書簡を認めるスタイルに、「感傷」という言葉ほどふさわしいものはない。
絵を観てわかったつもりになってしまうことの危うさについて、海野さんは「君」にこう語りかけている。
でも本当に見ればわかるのだろうか。私たちは本当に見ているのだろうか。野口(彌太郎―引用者注)の絵の前に立ち止まる。すると、わかっているはずの絵がとても不思議に思えてくるのだ。私たちはこんなふうに、わかったつもりで、多くのものや、多くの人々を通り過ぎていってしまうんだね。でも、わかったはずのものの中に、まだわかっていない、私にとって大事なものがかくされていたのかもしれない。(95頁)
「君」と「私」という関係のなかで、二人が身近に接していた時間を過去の遠い地点に設定することによって、過去に見過ごしていた何かを見つけることができる。ミニミュージアム紀行にとどまらない、絵との距離の置き方を語るすぐれた仕事である。
【追記】
この本を読み終えた直後、海野さんの新刊を書籍部で見つけ、思わず購入してしまった。題して海野弘 本を旅する』*2ポプラ社)。カバーと扉に著者の写真が大々的に取り込まれた「読書エッセイ集」だ。海野さんの本を読んだばかりなので、もう少し間を置いてから読むことにしよう。