損な性格

寄席はるあき

天の邪鬼な性格はどうにも直しようがないらしい。最初から自分が好きだったものが、あとで世間の流行になったら「ほら見ろ」と威張るくせに、世間の流行にあとから乗ることを潔しとしない。また、少し気にかかり関心を向けていたものが流行になってもいけない。とうぶんやり過ごしておこうという気持ちになってしまう。ひねくれているし、損な性格でもある。
そうした現今流行の一つに落語がある。ひところ興味津々で情報も追いかけ、上野鈴本や新宿末広亭などにも出かけていたものだが、世の中「落語ブーム」などと言われるようになったとたん、行きたくても足が向かなくなってしまった。そんな姿勢では、心底落語、ひいては「笑芸」が好きで寄席に行っていたのではないだろうと批判されてもやむを得ないと思う。本当に落語が好きなら、はやりすたりにかかわらず寄席に通っているはずだからだ。
批判は批判として受け止め、わたしはこれを性格に帰して自分で納得させようと思う。とはいえ、賑々しく書きたてはしないものの、落語に関する本は出たらマメに買ってはいる。決して本道ではないけれど、当面「書斎の落語」を楽しむことにしよう。
それで今回読んだのは、安藤鶴夫(文)金子桂三(写真)の『寄席はるあき』*1河出文庫)だった。アンツルさんの寄席、落語、噺家に関するエッセイやラジオ台本と金子桂三さんによる写真が組み合わさった素敵な本だった。
金子さんの写真は、寄席で演ずる噺家・芸人らに加え、むかしの東京(本書の初刊は1968年だから、昭和30〜40年代初頭ということだろう)の町並みを撮ったものもちらほら。おまけにカバーにはいまはなき人形町末広の建物を捉えたセピア色のもので、そのたたずまいの素晴らしさにしばらく声が出ない。もし昭和30年代にタイムスリップしたら、必ず訪れてみたいのが、この人形町末広の寄席である。
ほとんど文節ごとと言っていいほど細かく読点を付すアンツルさんの文章も健在で、こういう息継ぎが短い文章は黙読するだけでアンツルさん呼吸が伝わってくるような気がする。

いまは、テレビで、なにからなにまでが、自分のうちの茶の間へ、向こうさんの方から、やってきてくれる。そんな、ぜいたくが出来るのに、昔、寄席へ、うち中で出かけた時ほど、それほど、テレビはたのしくないのは、なぜだろう?(「寄席」34頁)
これを読んで、昨日触れた阿奈井文彦名画座時代―消えた映画館を探して』*2岩波書店)での映画と映画館の関係を思い出す。やはり落語と寄席という空間も密接で、切り離しがたいもののようだ。
「文庫版あとがき」のなかで、写真の金子桂三さんがふりかえる本書刊行のきっかけに関するエピソードがなんともいい。
 高座を撮るには上手の桟敷席後ろでした。
 その桟敷の一番後ろに、いつも品の良い老人が娘さんらしき人と一緒におり、私は勝手に〝おじさま〟と呼んで、カメラのシャッター音を詫びていました。
 ある日、見知らぬ年配者が、
「寄席がハネたら話がしたい」
 と言うので、喫煙室で待っていました。するといきなり、
「あなたがおじさまと呼んでいる人を誰だか知っているか」
 私がいいえと首を振ると、
久保田万太郎だよ」
 と言うので、私が安藤鶴夫著の『落語鑑賞』(昭和二十四年七月三十日発行)で、久保田万太郎の俳句を並べためずらしい序文があったことを告げると、その人が、その本は俺の本だと言うので驚きました。(340頁)
ひととおり読み終えたあとこの文章に出会ったら、またアンツルさんの呼吸と金子さんの写真を味わいたくなって、読み終えたかさの厚いページを押さえていた右親指を心もち反らせ、パラパラとページを戻してしまった。