音を大事にする人

星の王子の影とかたちと

サン=テグジュペリ星の王子さま』の翻訳で知られる仏文学者内藤濯の評伝、内藤初穂『星の王子の影とかたちと』*1筑摩書房)を読み終えた。著者の内藤初穂さんは長男にあたる。
内藤濯の「濯」は「あろう」と読む。『星の王子さま』を読んだことがなく、読もうという気持ちもなかったわたしが、内藤濯という名前を知ったきっかけは何だったのか、すっかり忘れてしまった。岩本素白のような、目立たないけれども実は超一流という碩学のたたずまい(名前だけからの印象)に惹かれたこともあるが、もっとも強く惹かれたのはその「濯」という名前にあった。
私事にわたるが、父も私も名前が一文字で、もし子供に恵まれたならば性別にかかわらず一文字の名前をつけようと考えていたわたしにとって、内藤濯という人物を知ったときから、「あろう」という名前が候補に浮上したのだった。でも自分の苗字に続けて「あろう」とつなげ声に出してみると何となくしっくりこず、この名前は「内藤」という苗字に続いてこそふさわしいと断念したのである*2
そんな気になる存在だったから、評伝とあって発売後さっそく飛びついた。『星の王子さま』の原題は「Le petit prince」で、直訳すれば単なる「(小さな)王子」となる。そこに「星の」を付けたのは内藤の創意にかかる。だから原書の版権が切れ新訳ブームになったとき、「Le petit prince」を『星の王子さま』という邦題を付して出すのは内藤の著作権侵害にあたるという問題が一時世間を騒がせた。「あとがき」から先にさらりと目を通したところ、内藤は「ある噺家」(三遊亭圓楽さんだろう)が「星の王子さま」を自己紹介の枕に使っただけで激怒したという。
そんなエピソードが頭にあるから、きっと内藤は狷介で頑固で、だからこそ独自の学問的業績を世に遺した碩学のなかの碩学なのだろうと読み進めていったところ、予想したほどの狷介な人物ではなかったようである。
熊本の医師の家に生まれ横井小楠の弟子を父にもった内藤は、政治より文芸を好み、小さい頃から詩歌をよくする。考証のような緻密な作業は資質に合わず、感性に赴くまま筆を走らせるという質の人だったという。陸軍中央幼年学校から一高、東京商科大学(現一橋大学)のフランス語教師を経、戦時中には幼年学校時代の教え子だった岸田國士の縁で、大政翼賛会の下で詩の朗読運動に加わることになる。この場合は「巻き込まれる」という表現が適当なのかもしれないが、もとより戦時体制如何にかかわらず、内藤は朗読運動を積極的に身を投じていた。
というのも、内藤はフランス語と接するにあたり、書き言葉(エクリチュール)でなく、話し言葉・音声(パロール)を重視したからである。「翻訳の要諦はエクリチュールの単なる移し替えではなく、パロールに秘められた文学感情の移し替えにほかならぬ」(244頁)という、音の側面から言語に関わる姿勢は、内藤の音楽への傾斜とも無縁でない。音を重視した内藤のフランス語作法は、晩年のそして最大の仕事である『星の王子さま』の翻訳へ直結する。
書痙で手が自由にならなかったという理由もあったらしいが、それを逆手にとって口述筆記という方法を十二分に活用したという。テープを使わず、内藤が一節ずつフランス語で原文を読み、それを日本語にして発語したものを著者の奥様(岩波書店の担当編集者でもあった)が書きとり、読み上げさせ、これを何度も繰り返して推敲を重ねながら完成に近づけていったという。読み上げ方も感情の起伏、思い入れを廃し、普通の話し方で読ませるというものだった。文章も平易な表現を好み、こうした外国語に知悉した人ほどそうありがちな、日本語表現の重要性を強く感じていたという。
大正時代におけるパリ留学時の、後輩辰野隆や山田珠樹・森茉莉夫妻との交遊や、当時パリの寵児だった藤田嗣治との出会いなど、人と人との結びつきを語るエピソードにも興味深いものが多い。著者の初穂さんは理系の人で、東京帝国大学工学部から海軍に入り飛行機や船舶の開発という技術畑を歩んだという経歴を持つゆえか、父内藤濯の評伝に著者の自伝が重ね合わされ、ときにはそこに力が入ってしまうきらいもなきにしもあらずであったが、興味のある碩学について初めて知り得た事実が多く、やはりというべきか、内藤濯訳の『星の王子さま』を読みたくなったのだった。
蛇足ながら、本書の印刷会社が「星野精版印刷株式会社」というのは狙ったのだろうか。

*1:ISBN:448081826X

*2:ちなみに同書によれば、長兄が「游」(あそぶ)、次兄が「梢」(こずえ)、三兄が「楽」(このむ)と名づけられたそうだ。