薄塗り厚塗り繊細大胆

藤田嗣治展

今回も隣の国立公文書館に所用があって(所用を作って)、「藤田嗣治展」を観に行った。開幕四日目の序盤、やはりこういう展覧会は終盤のほうが人は多くなるのだろうか。それでも、「こんなにフジタは人気があるのか」と驚くような観客の数だった。入り口入ってすぐのあたり(つまり初期作品)は立錐の余地がないほどの人混みで辟易する。
「乳白色の肌」で知られるフジタだが、その特質がいかんなく発揮されているパリでの売り出し期(1920年代のエコール・ド・パリ華やかなりし頃)の西洋婦人を描いた「白」が、日本画に使われる面相筆で繊細に表現された黒の輪郭線を引き立たせる。いや逆か。ただ個人的には輪郭線の細さに注目だった。可能なかぎり目をキャンバスに近づけてじっくりと線を眺める。
この時期の作品としては、裸婦を描いた作品よりも、懐に抱いた猫が顔をのぞかせる自画像二点(「アトリエの自画像」「自画像」)がいい。面相筆できっちりと洋服の皺の輪郭をひく描き方が気になるし、光線の加減によるシャツの陰翳の付け方が油彩的というより、水彩的なところに惹かれる。陰翳ということで言えば、女性裸体の陰翳を際だたせた「二人の友達」「横たわる裸婦」は、豊満というより筋肉質な裸体がユニークである。
ことほどさようにフジタは水彩画が意外に素敵だ。油彩ですら、油絵の具をコテコテと塗りたくってその凹凸が作品の魅力ともなるようなマティエールとは異なり、きわめて薄塗りであって、油彩的ではない。水彩画としては、南米旅行中の作品「リオの人々」「ラマと四人の人物」、日本に帰国後描かれた「チンドンヤ」「ちんどんや職人と女中」など、人間の身体に表現された陰翳は、水彩画であることを忘れ、対象の重々しい質感を観る者に伝える。
一億円くらい持って何か買うつもりで…という赤瀬川原平さん流の見方をすれば、フジタらしい人物画、大作ではなく、1930年代に帰国したあとしばらく麹町に構えられたアトリエ兼住居を描いた「我が画室」「私の画室」の小品二点(いずれも平野政吉美術館所蔵)を選びたい。ここには人物は描かれず、洋室・和室のアトリエの室内が描かれ、室内に散りばめられた小物をこれでもかと描ききる細かさに見とれる。小物の魅力という点からは、晩年パリに戻ってから描かれた「すぐ戻ります(蚤の市)」も好きだ。
線の細かさや人物の躍動感、「嗣治」という署名の字体を見ていると、エコール・ド・パリの寵児というよりも「日本の絵師」という気概がみなぎっているように感じたのは、先の評伝を読んで日本に対する複雑な思いを抱いたフジタの姿が刷り込まれたからだろうか。

藤田嗣治展」でいい加減足が疲れたのだけれど、せっかく来たからには常設展も観ないともったいない。フジタ展の賑わいとくらべると、常設展の空間はいつものように静寂に包まれており好ましい。
四階右手(西側)最奥、たしかいつもフジタの「五人の裸婦」が掛かっているあたりは、足腰の疲れを忘れて離れがたくなるほど素晴らしかった。ちょっとその前の隣の部屋へ。そこでは特集展示「パリの街角へのまなざし」で、ウージェーヌ・アジェによるパリの石畳の横丁と、佐伯祐三のパリ。
さて足を戻す。いつもフジタの大作がある壁面(最奥正面)に、長谷川利行の「タンク街道」「鉄工場の裏」二点が並んで掛けられ、左手に織田一磨小野忠重のモダン都市東京を描く版画、右手に国吉康雄と野田英夫がある。
直前にフジタの薄塗りの油彩画水彩画を心ゆくまで堪能し、繊細な線と薄塗りの魅力に取り憑かれたばかりだというのに、それと真逆の魅力をたたえた長谷川利行のこれでもかという厚塗りと乱暴な描線から浮き立つ都市空間にも圧倒させられるのだから、絵の世界もまた奥が深い。