棺に入れられた本

美の死

わたしが子供(小中学生)の頃、郷里山形に民放テレビ局は二つしかなかった。おおよそフジテレビ系と日本テレビ系だった。「おおよそ」というのは、時間帯によって他のキー局(つまりTBSやテレビ朝日)の番組が組み込まれることがあったからだ。よく言われる話だが、野球のナイターなどを観ていて「一部の地域を除いて」とあるとき、山形は例外なくその「一部の地域」だったのである。
フジ・日テレがあれば、まあおおよそ子供の娯楽としてのテレビを楽しむことはできたけれど、観たくとも観ることできず悔しい思いをしたのは、TBSの「八時だよ全員集合」と「クイズダービー」「ザ・ベストテン」だった。山形でも感度のいいアンテナを屋根に上げれば、お隣の仙台にあるTBC(東北放送)の電波をキャッチできたが、わたしの家のある地域は場所が悪く、ノイズがひどくて音声は拾えても映像はかろうじて人が動くのがわかる程度。このなかで「クイズダービー」や「ザ・ベストテン」を何とかして観ようとしていたあの頃のいじましさが懐かしい。衛星放送やケーブルテレビ、地上波デジタルなどと喧しい現代、かえってあのノイズのひどいテレビを観ていた経験は貴重だったなあと思う。
さて何を言いたいかと言えば、子供の頃TBSの番組を観ることができなかったわたしは、当然ながら久世光彦さんが演出した「寺内貫太郎一家」などを知らないわけである。先ごろ久世さんの訃音を聞いたとき、驚いたのはむろんながら、個人的には演出家久世光彦でなく、小説家久世光彦の死を悼んだ。もとより最近になって「小石川の家」だとか「センセイの鞄」といった“久世ドラマ”を楽しむようになったものの、やはりわたしにとって久世光彦という人は小説家なのである。久世さんの訃報を取り上げたテレビでは、小説家としての側面は演出家の陰にすっぽりと隠されてしまい、あまり大きく取り上げられなかったことが残念でならない。
とはいえ久世作品を熱狂的に愛し、作品の多くを読んでいるというほどのファンではない。最初に読んだのは『一九三四年冬―乱歩』*1新潮文庫)で、乱歩ファンとして、乱歩が筆を折り、放浪中に書かれたという架空の作中作「梔子姫」が真に迫った乱歩らしさを持っていることに驚倒されたのである。
久世さんの急逝と前後して、ちくま文庫から『美の死―ぼくの感傷的読書』*2が出た。書評や文庫解説などを収めた読書エッセイ集であるが、葬儀を伝えたテレビ番組によれば、できあがったばかりの本書が棺に一緒に収められたのだという。久世好きとしては黙っていられない。さっそく読んでみた。
あとがき(元版)にて、久世さんは自分の文章についてこのように書く。

人さまのことは兎も角、私が書く文章は、とにかくややこしいらしい。修飾過多で、比喩好きで、もって回って漢字が多く、めったに改行がしないので、ページがほとんど真っ黒い。煙草とおなじで、体に悪いのはわかっているけど、これが止められない。(326頁)
最近「あっさり好み」に傾斜しているわたしは、だから久世さんの文体の湿り気のある、こってりした感じはあまり好みではない。好みではないのだが、気になる。気になるから、出た本を買う。といってもすぐ読むわけでない。「こってり」を受け入れられる体調のときに選んで読む。読んだらやはり面白い。でも集中的に読もうとは思わない。そんな書き手だった。
今回の読書エッセイ集にしても、久世さんの好みと自分の好みはあまり重ならないことを知ったほどで、取り上げられた作家や作品に興趣をそそられないものがけっこうあった。だいたい自分好みの作家・作品が取り上げられる読書エッセイしか読まない人間としては珍しいことではある。
久世さんは最初のパートである「《名文句》を読む」のなかで、「〈名文句〉と〈名文〉はずいぶん違う」と書く。また別の場所では、「ある小説の、あるページを当てずっぽうに開いて、誰が書いたものかわかるということが、このごろめっきり少なくなった」とし、わかるほうの作家として、小沼丹川崎長太郎川上弘美町田康高樹のぶ子らを熱烈に推す。
その伝でいえば久世さんの文章だって、ちょっとみたらあの粘り気があって華麗な文体ですぐ見分けがつくし、さらに〈名文句〉が多く〈名文〉であるということができる。たとえばこんな文章。
あのころはいろんな匂いが私たちの周りにあった。アセチレン灯の匂いに、炭火の匂い、古本の埃と黴の匂いに、軒下のドクダミの匂い――確かな記憶はないが、私はきっとそうしたいろんな匂いのなかで「日本の橋」を読んだのだろう。そして、私たちは多くの書物の文章からも、この先、生きていくのに必要な匂いを嗅ぎとらなければならなかった。(167頁)
この部分に限らず、久世さんは読書体験に嗅覚など視覚以外の五感の記憶をまつらわせ、その思いを書くのが素敵にうまい。またたとえばこんな文章はどうだろう。
――文学と鼠はよく似ていると思う。忘れようと逃げても、街角からふいに顔を出し、目覚めの朝の障子に、不吉な影みたいに滲んで現れる。その幻は人間よりもずっと息が長く、まるで五十年がたったの三日であるように、執念深い。(261頁)
何気ない書評や読書エッセイに、こんな鋭いアフォリズムを滑り込ませる。読んでいるわたしたちはその切っ先の鋭さにどきりとする。
死を予感させるこんな文章を見つけた。
人は最期の刻に何を聴き、何を見るのだろう。その答えはかならず得られるのだが、そのとき人はもう、答えを他人に伝えることはできない。(…)ただ、ぼくは考えるのだが、頓死なら兎も角、人が死ぬ前にはある一定の時間が用意されていて、少なくともその間は、千々に乱れてであろうと、何かを思い、何かを目の裏に見ているに違いない。(218頁)
「頓死なら兎も角」というその頓死を遂げてしまったとおぼしき久世さんではあるが、久世さんは最後の刻に何を聴き、何を見たのだろう。死の前に「何かを思い、何かを目の裏に見て」いる時間は用意されていたのだろうか。
久世さんの新作を読めないのは残念である。これからもたぶん、好きではあるけれどおいそれと手は出せないという存在の作家として、ぽつりぽつりと久世文学を楽しませてもらおうと思う。