日本人であることにこだわれば

藤田嗣治「異邦人」の生涯

先月のある日、職場のチラシ置き場に、今月末から東京国立近代美術館で開催される藤田嗣治展のチラシが置いてあった。生誕120年を記念して開催される日本初待望の大回顧展だ。日本史に関係する職場だが、美術館のチラシが届けられることは珍しくない。ただ、これまで東京国立近代美術館(以下近代美術館と略す)の展覧会チラシはほとんど目にしたことはないし、個人的に期待大の展覧会ゆえ、「おっ」とチラシの前で足が止まった。
チラシがあるということは…と周囲を丹念に見回してみると、…あったあった、招待券が。片方が糊で綴じられた招待券のぶ厚い束がさりげなく置いてあったので、大喜びで一枚もらってきた。
仕事場に戻って冷静に考えてみると、遠慮深く一枚だけもらってくるというのももったいない話だということに気づいた。そこでふたたびとって返し、知人の分としてもう二枚頂いたのである。その日の帰り際、チラシ置き場の前を通ったら、すでに招待券の束がなくなっていたから、危ない危ない。それにしても獲物に群がるハイエナのように…。いやいや、これ以上何も言うまい。ハイエナの一人(一匹)がわたしにほかならないのだから。
画家藤田嗣治のことは、近代日本の洋画家の作品に興味を持って見始めてから(具体的には洲之内徹さんの著作に親しむようになってから)知った画家だ。その作品にお目にかかるのは当の近代美術館だけで、いつも四階のフロアの右手最奥に鎮座している大作の「五人の裸婦」、三階のフロアの右手手前に架かることの多い戦争画の大作「アッツ島玉砕」に圧倒されるのだった。華やかなりし戦間期のパリで名声を博し、世界的な評価を勝ち得た画家であり、いっぽうで第二次大戦次には日本に拠点を移して戦意昂揚の戦争画を多く描き、そのために非難を浴びた画家、そんなイメージしかなかった。
せっかくのフジタ展だから、観る前に予習しておこう。そんな気持ちで、一月に出た近藤史人さんの藤田嗣治「異邦人」の生涯』*1講談社文庫)を読み始めた。
おかっぱ頭にちょび髭という目を引く身なりとエキセントリックな振る舞いがときには宣伝行為だと貶められ、パリでの世界的名声も、祖国日本では受け入れられず、戦争画を描いたことでは、戦後彼だけが犠牲的な非難を浴び、最終的に祖国を離れ、フランスに帰化し彼の地で没した日本人。本書は、奇行ゆえに伝説に彩られ、そのために肝心の作品が真っ当に鑑賞されないという悲劇の画家について、彼が自伝的に残した資料を博捜して分析し、真実に近づこうとした労作である。
本書を読んで初めて知る事実が多かった。父は鴎外の次に陸軍軍医総監についた軍医であり、子の嗣治を医者にしようとしたところ、嗣治は拒否、同じ家に住む父親に手紙を書いて、自らの画家になりたいという希望を伝えたという。
東京美術学校黒田清輝に学び、卒業後パリに渡って苦労しながら、ようやくエコール・ド・パリの寵児となってゆく過程はサクセス・ストーリーとして読みごたえがあるいっぽうで、パリに住みながらも決して日本人たることを忘れないフジタという人間の根強い祖国意識が強い印象に残る。

藤田の発言をたどってみて奇異に感じるのは、最終的には日本と訣別し、フランス人として没した経歴にもかかわらず「日本人であること」にこだわりつづけたことである。藤田ほど強く「日本」を意識した画家はいないのではないか。(150頁)
結局のところこの一節が本書における大きなポイントであり、フジタの生涯とその作品を考えるための入り口ということになるのではあるまいか。パリにわたり洋画を学ぶいっぽうで、日本画で使われる面相筆を使用して独特の細かいラインを描くなど、日本画の手法を取り入れる。
日本に一時帰国するときも、純日本風の家屋に住み、囲炉裏と火鉢のある部屋で暮らす。驚くにはあたらないだろうけれど、意外だったのは、昭和に入ってから日本の知人に宛てて書かれた書簡が候文だったこと(164頁)。ここにフジタの日本人としての核を見たような気がした。日本を捨て晩年を送ったパリ郊外の田舎にあるアトリエには、広沢虎造浪曲SPレコードがおびただしく蔵されていたというのも、日本人に疎まれたすえに「日本人とはもう決して会わない」とまで噂されたフランス国籍の老画家の身を考えると、痛ましい。
戦争画への傾斜も、このフジタの日本人としての意識に由来する。祖国を愛するゆえに描いたにすぎない。戦争画家の最先鋒として発言を求められると、時局迎合としか受け取られないような軍国主義的発言が飛び出す。しかし黒田さんは、このフジタの姿勢を「だが常套句を連ねた藤田の文章を読み込めば読み込むほど、私には、藤田が「日本人」としてのアイデンティティを獲得しようと背伸びをする痛々しいほどの思いが感じられてならない」とする。乳白色の肌が魅力的なエコール・ド・パリのフジタも、凄惨な戦争画のフジタも、日本人たらんことを自ら強く意識した人間が生みだした作品として、評価されなければならない。
晩年、将来公表するつもりで書いていたのではないかとされる自伝的手記の草稿にある次の一節がわたしの胸を強く打った。作品鑑賞の予習のつもりが、藤田嗣治という人間に奥深いところでとらえられてしまったゆえに、シンパシーを抱きながら作品を観ることになりそうである。
 私と言うものはデリケートな気性から諍いを嫌い、人中に入りてその程度のレベルの人になりたくない。人と話をするよりも、人の話を聞いて一人で問答している方が私は好きだ。
 今までそれ故どれだけ損をしたか、何故その場で口を聞いてその真偽を弁駁しないか、やっつけるときは何故手を叩かぬか、とは始終私より二まわりも年若の女房の願いだが、そんな連中と争いあっても、例えその場で言い負かしても、陰で何の反響もなく平然としてるにすぎないと思って、馬鹿みたいな顔して馬鹿と思わせて居た方が面白いと思っている私だ。(382頁)