軽みが好きということか

三田の詩人たち

篠田一士さんの『三田の詩人たち』*1講談社文芸文庫)については、前回年譜を引用したとき、「感想は後日書く」とした。間をおかず書くつもりでいたのに、身辺バタバタしているうち、一週間近く経ってしまったではないか。これでは読んだ内容を忘れてしまう。
「三田」というのは言うまでもなく慶應義塾大学のことで、慶大に縁のある詩人五人(プラス一人で計六人)が取り上げられ、その作品にただようポエジーのありかが講義という形式をとって語られている。取り上げられているのは、久保田万太郎折口信夫佐藤春夫堀口大學西脇順三郎の五人。これに加えて最後に特別編のようなかたちで永井荷風についての講義が収められている。
個人的な関心で言えば、取り上げられた全員に関心がある。とはいえ、このうち以前から興味を持っていたのが佐藤春夫一人。その他はここ数年の間で関心が芽生え、作品を買ったり、読んだりしたに過ぎないけれど。
久保田万太郎は当然戸板康二経由で興味を持った人。いまや句集や全集端本を持つにまで至った。万太郎の俳句はいまのところわたしの一番のお気に入りだ。篠田さんも万太郎の句を高く評価する。

万太郎の俳句の特徴は、芭蕉やそれ以前からの俳句の独特の軽み、ふざけ、遊びが生きているということで、要するにハイカラなんですね。江戸俳句にはあった、時代の先端をいくようなハイカラという感覚、それが万太郎の句にもある。だから必ずしも新しいとはいえないわけで、むしろ古いものを逆手に使って新しさを出す。一見詩にはとても向かないような言葉を使う。そういうやり方で万太郎は小粋で洒落たハイカラな感じを出したんです。(36頁)
この評言は、感覚としてよくわかる。言われてみるとたしかにそんな感じがする。ハイカラ=「新しい」と単純に考えていたわたしは、このちょっとひねった論理にぐいっと惹き込まれた。
さて折口信夫はやはり戸板経由で関心が高まっていて、戸板さんの名著の誉れ高い『折口信夫坐談』は読んだものの、作品のなかまではまだ踏み込めていない。堀口大學も、本書のなかで篠田さんがやはり高く評価する訳詞集『月下の一群』や関容子さんの聞書(講談社文庫『日本の鶯』)は持っているものの、まだまだ未開の荒野だ。
堀口大學への関心は、たしかこの間ついに文庫に入った北村薫さんの『詩歌の待ち伏せ』で一気に高まったのではなかったか。篠田さんは「言ってみれば、最初にお話しした久保田万太郎さんの俳句における軽み、これをヨーロッパ風のシックな形で近代詩のなかに生かしたのが、詩人堀口大學の持ち味、魅力ということになります」と語る。久保田万太郎の句に接したときも、堀口大學の詩に接したときも、たしかに「へえ、俳句(詩)にもこんな親しみやすい、スッと心のなかに入ってくる味わいがあるんだ」と驚き、それが関心を持つきっかけになったように記憶している。そんな自分の体験の裏側を、篠田さんは見事につなげてくれた。
西脇順三郎についても北村さん経由だったと思うのだが、定かではない。何かで読んで、西脇の詩を面白いと感じ、以来詩集があったら手に入れようと思いながら、果たせていない。いや、正直に言えば、入手の機会がないわけではなかったのだが、そのときは心が動かされなかった。一般的に難解とされる西脇の詩だが、篠田さんは変に難しく解釈しようとせず、読んだところを素直に感じればいいのだと言う。
詩、ポエジーというものは、日常的な場に屹立し、日常的空間とは異なる一つの言語空間を創りだすものだったんです。(151頁)
詩を読むとき、ことさら身構えず、読んだところを感じる。そこに「日常的空間とは異なる一つの言語空間」が生み出される。「詩」というものは何やら難解だと身構え、すでに受け皿として「非日常空間」を用意してしまっているのがいけないとおぼしい。素直に読めばこんな面白いものはない。万太郎の句しかり、堀口大學の訳詞しかり。
いまひとつ目から鱗が落ちたのは、荷風に関する評価だった。本書のなかで篠田さんは荷風に流れる漢文学者の血というものに注目し、それが結実した『下谷叢話』に注目する。荷風作品のなかでも『下谷叢話』がけっこう好きなわたしとしては、それだけでも嬉しかったのだが、なぜ自分が『下谷叢話』を好むのかという理由まで本書で解き明かされていて、すこぶる納得したのだった。
篠田さんは、『下谷叢話』で荷風がシンパシーを抱いて描いた漢詩人大沼枕山について、「超然としているようだけれど、実をいうと、枕山という人の漢詩ほど、当時の世態風俗を唱ったものはめずらしいのです」とし、続けてこのように語る。
だから、彼の漢詩を読めば、明治新政府になってどういうふうに風俗が変わったか、それをかなり風刺をこめた唱いぶりで唱っています。たとえば駕籠が馬車になったというような違いがよくわかり、燈明だったのがガス燈になった、そういう違いとか、まったく明治初期の開花絵というのかな、錦絵、ああいうものを彷彿とさせるような風俗描写、それがよく出ているんです。(182頁)
下谷叢話』に引用される大沼枕山らの漢詩が身辺を詠み、自身の感慨を詠み、叙事的性質があることを知って驚き、かつ親しみを感じたのだが、そんな自分の好みの動き方がズバリ指摘されていて、それだけでも本書を読んだ甲斐があったというものだった。