「不味い」の獲得

不味い!

知り合いとの雑談のなかで、「○○(飲食店)の××(メニュー)はまずい」とか、「学食のカレーはまずい」といった話を耳にすることがある。そうした話を耳にするたび、わたしは多少を違和感をおぼえてきた。というのも、そこで対象となっている店(メニュー)について、まずいと感じたことがほとんどないからだ。学食のメニューだって、あまりひどいと思ったことはない。
そもそも物を食べて「まずい」という経験をした記憶があまりない。美味い物ばかり出される裕福な家庭に育ったわけでなく、ごく普通の中流家庭で、ごく普通の「食育」をほどこされてきたと思うので、これはたんに自分が「バカ舌」にすぎないのかもしれぬ。何を食べても美味しく感じるというのは言い過ぎにしても、まずいとは感じない。バカ舌なのか、食味に対して寛容なのか。
まずい(不味い)食べ物は、おいしい(美味しい)食べ物があってこそ成立する。いや逆か。美味しい食べ物は不味い食べ物があってこそ存在しうる。わたしのように「不味い」の価値観が欠落しかかっている人間は、ある意味欠陥を持っていると言うべきか。
醸造学・発酵学の泰斗にしてユニークな食文化論を展開する小泉武夫さんも、次のように書いている。

しかし、美味しいものというのは、逆説的に考えれば不味いものがあるからこそ、それに対比して語られるのであって、そう考えると、不味いものの存在は、実は味覚文化の中に在っては大切なことのひとつと言えなくもないのである。
なのに世間にあふれているのは美味しい食べ物についての本ばかり。これに不満をもった小泉教授は敢然と不味いものについての本を書こうと思い立つ。それが『不味い!』*1新潮文庫)である。先に引用したのは、同書の「はじめに」中の一節だ。
「俺」という一人称を用いて書かれる無骨でワイルドな文体は、そこで取り上げられている数々の「不味い」食べ物の強烈なインパクトに負けない強さを持っている。それにしても何と世の中には不味いものがあふれていることよ。食べるほうも食べるほうだ。小泉教授は不味くて口にするのをやめるのではなく、もったいなくて最後まで食べてしまおうとするし、不味さの原因を学者らしく追究しようとする。
不味さの原因が科学的に分析され、提示されるから、よほどこの人は食べ物に対して冷静な観察力を持っている人なのだなあと感心するいっぽうで、理性を忘れて感情で行動してしまう場面もあるから微笑ましい。
あるところで食べたラーメンがあまりに塩っぱかったので、味を薄めるためコップの水を入れたところ、「スープの味がフニャフニャといった感じにボヤけてしまい、おまけにスープも麺も生ぬるくなって、いくら腹が減っているとはいえ、平らげるのに難儀した」という経験があるにもかかわらず、塩っぱいラーメンに出会うと発作的に水を入れて薄めてしまい、ますます食べられなくしてしまうみじめさ。
「不味い蛇」「不味い虫」「血の匂い」「カラスの肉」のような、想像するだにおぞましい食べ物に正々堂々立ち向かう勇気に拍手を送りつつ、そこに綴られている食べ物の描写に顔をしかめざるを得ない。
そんな「悪食」は極端だが、「病院の食事」の一篇を読んで、一昨年入院したときに味わった素っ気ない病院食を思い出した。小泉さんはこれを「不味い」と切り捨てるわけだが、わたしの場合、「不味い」ではなく、「ちょっと完食するのに骨が折れるなあ」と感じたにとどまった。そこから「不味い」に飛躍しないのだ。
本書を読んで、これまで食べて感じてきながら、「不味い」という感覚に到達しなかったナッツ類の「不味さ」や「未去勢牛が持つ獣臭」からくる「不味さ」に気づいてしまった。もう遅い。わたしはとうとう「不味い」という人間の味覚を身につけてしまったようだ。口にするものことごとくを「不味い」と思わず黙って受け入れていた数日前までの未開人間的感覚が懐かしい。いや、馬鹿を言っちゃいけない。未開人間だって、動物だって、「不味い」という感覚はあるか。