今年初めての読書感想

都筑道夫コレクション《パロディ篇》

「本読み」のサイトをつくりはじめて七年が過ぎ、八年目に突入した。けれども、最近まったく本を読めていない。一月も半ばになろうとしているのに、ようやく二冊読み終えただけ。こんなに本を読めないのはサイト開設以来初めてではあるまいか。「本読み」サイトの看板を外さなければならないのではないかと懸念している。
昨年末以来自宅で抱えた仕事は、かろうじて映画を観ながらの「ながら」は可能であるものの、読書との並行は不可能である。読書ができるのは電車の中と、家の中ではトイレのときだけというひどい有り様だった。しかも、こうして本や映画の感想を書くため、パソコンを前にしたり、ネットにつないだりする気力が沸いてこない。
いま、原因のひとつとなった横手の町に出張し、ホテルでこれを書いている。じっくりパソコンに向き合い考えることができるのはこのような環境がないと当分駄目かもしれない。横手の町は昨年同様雪が壁のようになっている。とはいえ、正月休みで帰省した山形の大雪から想像していたよりは、思ったほど多くはない。
ということで、行きの新幹線のなかで、ようやく一冊読み終えた。昨年年末帰省のおり携え、家の中読書用、つまりトイレのなかで少しずつ読み進めていたものを、一気に読んだのである。都筑道夫さんの長篇『三重露出』光文社文庫都筑道夫コレクション《パロディ篇》』*1所収)だ。
翻訳家が翻訳をしていたアメリカ作家のアクション小説「三重露出」のなかに、数年前に犯人不明のまま殺害された知人女性の実名が登場していたということがきっかけで、翻訳家が事件解決に乗り出そうとする話だが、そうした謎解き的は必ずしもメインではない。翻訳校正中の長篇「三重露出」が二段組みで途中にはさまり、一段組みにされている翻訳家の話と並行してストーリーが展開する。都筑さんらしい仕掛けである。
そしてむしろ話はその二段組みの翻訳小説「三重露出」のほうが愉しい。アメリカ人が忍術の修行のため来日中に事件に巻き込まれたというストーリーで、山田風太郎ばりの奇想天外な忍術合戦が繰り広げられ、洒落のすばらしくきいた忍法の名づけ方に感心しながら読み進めたのであった。たしかこの二段組み部分だけのストーリーで映画が作られたのではなかったか。
さらにこれもうろ覚えだが、何かで読んだ都筑さんのエッセイ(あるいは誰かの都筑作品論)のなかで、この『三重露出』のなかでは昭和30年代の東京の町の雰囲気を作中に取り込むことに主眼をおいたものだったように記憶する。翻訳小説の主人公は、進駐軍が名づけた東京の通り名を使っている。
このたぐいの小説をこれだけ長期間にわたって少しずつ読んでいると、しかも、二つの話が交錯し、登場人物が外国人となると、もはや一本の糸としてストーリーを追うことは難しくなっている。読後憶えているのも、ストーリー展開ではなく、印象的な細部の描写なのだった。
たとえば翻訳小説「三重露出」(二段組みのほう)の第二章のなかに、こんな一節が出てくる。

サクラ・アパートのわきに車をおくと、小雨の中を露地口まで戻って、おれはアキコを、まずオニギリ・ダイナー(DINERは簡易食堂)で持てなすことにした。オニギリは、ニギリ=メシの女性的略称だ。ボイルド・ライスを手でボール状にかためたもので、中にプラム(ウメボシのこと)や、鱈の子の塩漬などを握り込み、崩れないようにアサクサ・レイヴァー(浅草のりのこと)で包んである。手づかみで食べるホットドッグなみの軽食で、元来は家庭の主婦が、ピクニックの弁当なんかに作ったものだという。これ専門のダイナーが、トーキョーの盛り場に増えだしたのは、二、三年前からだそうだ。(光文社文庫版60頁、( )内は原文割註)
ちょうど映画「東京おにぎり娘」を観た直後だった(このことからも、本書を年末に読み始めたことがわかる)ことから、その符合に驚いた。「東京おにぎり娘」は1961年の作品、「三重露出」の原著は63年に刊行されたという設定になっているから、映画が捉えたおにぎり屋の出現という社会風俗と、本作で言及されている「オニギリ・ダイナー」の普及がぴたり一致するのに興奮したのである。