「素直に貰って」の贈与論

さくらんぼジャム

庄野潤三さんの初めての女の子のお孫さん「フーちゃん」を主人公にした小説『鉛筆印のトレーナー』(福武書店、→12/11条)を読み、久しぶりに庄野さんの作品世界に触れると、このまままた間隔を空けて、その世界から離れてしまうのが惜しくなった。せっかくだからこのさい一気に“フーちゃん物”を読み終え、続く“老夫婦物”へ弾みをつけるべく、さくらんぼジャム』*1文藝春秋)を読むことにした。
『貝がらと海の音』(新潮文庫)にはじまる“老夫婦物”が徐々に文庫化され、わたしのようなこれまで庄野文学に縁のなかった人間を読者として獲得しているのにひきくらべ、内容的にまったく変わらず、連続性のある“フーちゃん物”が打ち捨てられたままなのは残念である。
先日『鉛筆印のトレーナー』を読んだときにも書いたが、庄野さん夫婦と子供たち一家、近所の人びととの間で形成されている「おすそわけ文化圏」とも言うべき贈答の世界がどうしても印象に残り、触れないわけにはいかなくなる。庄野文学を読むと「贈与論」という言葉が浮かんでくるのは、あまりいい癖とは言えないけれど、つい庄野さんを取り巻く関係を「贈与論」的に見てみたい、そんな思いにとらわれるのである。
庄野さんや子供たち、近所付き合いのある人びとの間では、実によく物が贈り贈られる。正月や彼岸など季節の行事や、子供の学校入学など、非日常的な機会にプレゼントがなされるだけでない。どこか遠方の人から届け物があったとき、食べ物を作ったときなど、日常的にも「おすそわけ」が行なわれる。自分たちだけで消費しきれないほどたくさん買ったり貰ったりしているわけではないのに、たとえば、あえて3個のうち1個を取りのいて、1個を「山の下」の長男・次男一家に持って行き、長男・次男一家は1個を半分に分けるようなこともある。
物を贈り贈られするうちに、何が最初の贈与であり、何が返礼であるのか、見分けがつかなくなる。「贈答文化圏」を成立させるきっかけはどこにあるのだろう。何から人びとの間で物のやりとりが始まるのだろう。この『さくらんぼジャム』を読んでいて、そのきっかけになるような出来事に出くわした。
庄野夫妻にいつも花々をプレゼントする清水さんという近所の人の年下の友人で、市場の手前で野菜を店頭売りしている常泉さんという人がいた。庄野さんの本を読み、庄野さんと「山の下」の子供たち一家の間で「おすそわけ」が行なわれていることを知った常泉さんは、庄野さんの奥さんが常泉さんの店で野菜を買ったとき、「おすそわけ」用のおまけをつけてあげようとする。奥さんはつけてもらったおまけの分のお金も払おうとしたところ、常泉さんは「素直に貰って」と、追加の代金を遠慮した。
奥さんはそのお礼として、貰い物のジャムの瓶を二つ買物籠に入れ、市場に出たとき、常泉さんにあげようとする。遠慮する常泉さんに奥さんが発した言葉は、「素直に貰って」だった。自分の言葉を返された常泉さんは、笑いながらジャムを受け取る。
庄野さんたちと常泉さんの間には、もともと贈答関係がなかった。物を贈り贈られるさいには、相手に返礼をしなければならないという心理的重圧・障害がともなう。それが取り払われ、物を贈り贈られするさいに何の気の迷いもなくなる契機が、「素直に貰う」という気持ちの発露にあるのだろう。素直に貰い、貰われという関係を経て、何の気兼ねなく「おすそわけ」を行なう関係が生まれてくる。野菜とジャムの贈答は、庄野さんと常泉さんの間に日常的な「おすそわけ」関係が生まれるきっかけとなった「事件」なのである。
ところで本書の大事件は、フーちゃん一家(次男一家)の引越しである。庄野さん夫婦が住む丘から歩いて五分のところにある借家に住んでいた「山の下」の長男一家と次男一家だが、次男一家は電車(小田急)で一駅離れた町の家を購入し、移り住むことになった。ちょっとした「別れ」である。
庄野夫婦とフーちゃんとの「別れ」の場面にはつい読む者も貰い泣きしてしまうのだが、その後も相変わらず頻繁に次男一家と往来し、フーちゃんは小学校に入学する。フーちゃんが少し離れてしまったあと、『さくらんぼジャム』には、長男夫妻の長女で、まだ幼い「恵子ちゃん」がよく登場することになる。さて『貝がらと海の音』以降、庄野一家はどのような暮らしを送るのか。2006年は“老夫婦物”を少しでも多く読み進むことを目標のひとつにしよう。