空白を活かす小説作法

不逞の輩 退職者たち

都筑道夫さんの小説を読んだら、次に佐野洋さんの小説を読みたくなるという気持ちの流れは、去年から今年にかけて、収まらずにずっと続いている(→2004/7/16条6/26条)。
そのときにも書いたけれど、二人の間には「名探偵要不要論争」と言うべき論争があって、都筑さんは探偵シリーズ物を多く書いているように、探偵シリーズ物擁護であるのに対し、佐野さんはどちらかと言えばテーマ中心の連作短篇に傾いているから、探偵シリーズはマンネリ化するとして否定的見解を提示している。わたしは名探偵要不要にかかわらず、都筑さんの作品も佐野さんの作品もそれぞれ大好きなのである。
この論争の具体的な文章は、先日入手した佐野さんの『推理日記2』(講談社文庫、→11/12条)に都筑さんの反論と一緒に収められていて、詳しい経緯を知ることができるのがありがたい。と言っても未読なので、いずれ読もうと思う。
そう言ったわけで、都筑さんの『退職刑事2』を読んだからには、そろそろ佐野さんの短篇集も読もうと手に取ったのは、今年文庫に入った『不逞の輩―退職者たち』*1(徳間文庫)だった。
サブタイトルにあるように、この短篇集には、定年やリストラ、早期勧奨退職などで勤めを辞めた「退職者」が収録9篇を貫くテーマとなっている。初出誌(『問題小説』)から単行本を経ずに文庫に入った、いわゆる文庫オリジナルの短篇集である。
読後、相変らず「うまい」とため息をつき、いい小説を読んだときに感じる清々しさが心に広がった。軽くさらりと書いているようでありながら(実際まことに読みやすい)、人生の機微、陰影を深く突き、輪郭鋭く描いているのは、これまた他の佐野作品同様である。退職者たちの心理の動きもリアルなのに驚嘆する。
たとえば「後ろ向き歩き」において、退職者の登場人物と彼の友人との間に交わされた会話の一節。

いわゆるサラリーマンは、現役時代は、たいていネクタイをして通勤していただろう。その人が退職した。そして外出する際、ちょっと考えるんだ。勤めをやめたのだから、わざわざネクタイはすることもないのではないか。あるいは奥さんに、もうネクタイはいいのじゃないの、などと言われ、じゃあネクタイはやめようかという気になる。ところが、外出前に鏡を見ると、何となく首のあたりが寂しい感じがする。そこで、ネクタイに代わる物が欲しくなり、ループタイをして家を出る……(194頁)
そう友人からズバリ指摘されたループタイの「退職者」は、友人から、退職後身体がなまらないよう、「後ろ向き歩き」を勧められる。後日近所を散歩しているときに後ろ向き歩きを実践していたら…。
佐野さんの短篇の素晴らしいのは、前に『古い傷』(新潮文庫、→6/26条)を読んだときにも指摘したが、空白(空行ないし章分け)の使い方が見事なこと。
先の「後ろ向き歩き」でも、上記二人の日常的な会話の場面が終わり、章が変わると今度はまったく新しい登場人物の話になって犯罪(的事件)が絡み、前章での「後ろ向き歩き」がかかわってくる。ミステリならではの犯罪事件と、一見無関係に見える「退職者」の話題が空白を介してつながる仕掛けは、小説家佐野洋の独擅場なのである。