書けば自ずと資質がわかる

時代小説盛衰史

大村彦次郎さんの新著『時代小説盛衰史』*1筑摩書房)を読み終えた。
野間清治が『講談倶楽部』を創刊した明治44年(1911)から書き起こし、全14章。終章では、時代小説の大御所吉川英治が死去し、同誌が廃刊された昭和37年(1962)を少し越えた翌昭和38年の長谷川伸野村胡堂の死までを叙して筆を擱いている。50年に及ぶ時代小説の歴史を概観した読みごたえのある一冊だった。本書で述べられている50年は、講談という話芸が「講談速記」として紙に定着し、徐々に文学作品へと昇華してゆく過程にあたる。
大村さんの本は、『文士の生き方』(ちくま新書、→2003/10/27条)、『文壇うたかた物語』(→2003/12/12条)・『文壇栄華物語』(→2003/12/31条)・『文壇挽歌物語』(→2004/4/29条)(以上筑摩書房)と愛読してきた。『ある文藝編集者の一生』(筑摩書房)を未読のまま本書『時代小説盛衰史』を読む仕儀とあいなった。未読の大村本がもう一冊残っているわけで、これほどどれも面白いとなれば、読み惜しみしてしまうではないか。
これまでは主として純文学や中間小説の書き手を中心とした「文壇史」を叙述してきたということで、本書ではそこから漏れた時代小説の推移と書き手の浮沈が丹念に追いかけられている。これまでの著作同様、作家たちの懊悩、焦燥、歓喜、落胆といった息づかいが聞こえてくるような生々しさで、登場する作家たちに感情移入させてしまう力は見事というほかない。
最初に印象に残るのは、中里介山のエピソードだ。介山は活字に執着するあまり、自ら中古の手刷り印刷機を購入し、自宅に据えて自ら活字を組み、私家版の『大菩薩峠』をつくったという。「二頁組み上がる毎に和紙に刷り、刷り終るとすぐに解版した。汚れた活字は石油で洗って、もとの活字ケースへ収めた」(50頁)という。一流の版元から出版される以前のこの『大菩薩峠』私家版は、古書市場に出回っているものなのだろうか。もし出回っているとしたらべらぼうに高いに違いない。
中里介山は性狷介、時代小説作家は彼のように頑固一徹で狷介な人物が多かったようだ。奔放で破滅型といえば直木三十五くらいで、頑固・狷介という言い方が悪ければ、篤実で重厚と言い換えてもよい。時代小説というジャンルが要求する地道な考証作業が、このような性質の作家たちを作り上げたのかもしれない。山本周五郎海音寺潮五郎あたりが介山以後のその方面の代表的作家だろうか。
本書を読んで、作品を読みたくなった作家は、長谷川伸子母沢寛二人だ。これは必ずしも本書だけが原因ではないかもしれない。遡れば、『時代劇ここにあり』(平凡社)の刊行を記念した川本三郎さんの講演会(→10/1条)に行きあたる。反権力を謳った敗者の美学が長谷川の「股旅物」に結実し、子母沢寛の『新撰組始末記』を生み出した。
先般新潮文庫から重版が出た子母沢寛の『勝海舟』がずっと頭にひっかかっていることもある。何しろ平野甲賀さんのカバーデザインがとびきりカッコイイのだ。本書を読んで、いよいよ子母沢寛を読むときが来たという感じである。
興味深いのは、最後のほうで取り上げられている柴田錬三郎司馬遼太郎のエピソードである。柴田が初めての長篇時代小説「江戸群盗伝」を書いたときの話。

綿密な構想も立てず、勝手な着想をたよりに筆を進めたので、作品の成功はおぼつかなかったが、これを書いていくうちに、柴田は自分の中に眠っていたストーリー・テラーの才能を意識するようになった。ひょっとすると、自分の性分はこれまで書いてきた小説より、伝奇的な時代物のほうに向いているのかもしれない、と思った。(437頁)
直木賞受賞作となった「梟の城」を新聞に連載したとき(連載時のタイトルは「梟の都城」)の司馬の感慨。
司馬は最初、忍者という存在を純文学風な手法で捉えてみるのはどうか、とも考えたが、連載が進行するにつれ、波乱万丈の面白さに本人自身が嵌って、自分という作家はこういうタイプの小説家だったのか、と改めて気がついた。(461頁)
柴田・司馬両氏とも、書いているうちに物語作家としての自らの資質に目ざめたという挿話である。むろん根本的な、あるいは潜在的な才能がなければ気づきようがないのではあろうが、書いてみてはじめてわかるということもあるのかもしれない。こんな話を読んでいると、どれ自分もひとつなんて気持ちに…、やはりならない。