回想録と歴史書のあいだ

テレビの黄金時代

小林信彦さんの『テレビの黄金時代』*1(文春文庫)を読み終えた。
小林さんの他の本の例に漏れず、すこぶる面白い。ぐいぐいと読者を引っぱってゆく力がある。けれども、ただ「面白い」を連発し、何が面白かったのかをこまごま説明するのでは、これまで書いてきた小林さんの本の感想と何ら変わり映えしない。
だから、読みながら、今回は逆の立場から眺めてみよう、そう考えた。わたしのように小林さんの書いた本をことごとく面白いと感じる人間もいれば、そうでない人もいるに違いない。「何が面白いんだ」と反発を感じる人もいるだろう。ではそういう人は小林さんの本のどういう点を嫌うのか、この点を考えることで、小林さんの本の魅力を照らすことができるのではないか。逆の立場から眺めるというのは、そういう意味である。エッセイや評論と小説はおのずとジャンルが異なるので、以下小説の分野での仕事は除外して考える。
単純に魅力を感じる点で言えば、マニアックなほど細部にまで言及する叙述、固有名詞の頻出だろうか。知っている人であれば楽しめる。小林さんの本を読むにしたがって、そんな小林さんに対する個人史的知識は増えるし、小林さんがタッチしていた世界(ミステリ、映画、テレビ)のことを知るにつれ、ますます読む喜びが増す。逆に言えば、そうした世界に興味がない人、知らない人は、小林さんの本を読んでもつまらないだろう。
小林さんの本を読んで、自慢癖というか、自分は先見の明があったというような書きぶりが鼻について嫌だという人がいるかもしれない。わたしはそういう点について、ただただ「スゴイ」と敬意を抱くだけだからおめでたいのだが、嫌な人は嫌だろう。
そういう意味では、本書もまたその見方をまぬがれまい。テレビのかなり早い時期からヴァラエティ番組の制作に関与していた小林さんの眼で、当時のテレビ界のさまざまな動きが観察されている。そのなかで最初の頃は無名で、でも小林さんはその面白さを見抜いており、のち頭角を現したというタレントたちが多く登場する。疎まれるとしたらこういう点か。
そんなふうに考えながら読んでいたら、次の一節に出くわし、小林さんの方法論がわかったような気がした。

今まで、かなり飛ばして書いてきたので、この文章を回想録と思っている人がいるかも知れない。そうした要素があることは否定しないが、回想録を書くのなら、苦労はしない。ぼくは歴史小説を書くような心構えで、これを書いている。ただし〈小説〉ではないから、フィクションはない。とすれば、現代史の一種か。〈描写〉ということをしなかったので、気楽な回想と思われたのかもしれない。(166頁)
この文章を一回読んですぐ理解できなかった。繰り返し読んで朧気ながらようやくわかったのだった。小林さんは本書を「回想録」でなく、「歴史小説」「現代史」に近いものという意識で書いている。自身の過去の見聞をただ書き流すだけでは「回想録」にとどまる。見聞、記憶をできるかぎり資料で裏づけて正確を期し、客観的体系的叙述を狙う。
しかしながら、本書のどこかで書いていたと思うし、別の本でもしばしば言明しているように、小林さんは自分の見たものしか信用しない(見た事実しか書かない)というポリシーを持っている人である。
本書もまた、叙述の基礎となっているのは、「ノート」「メモ」といったたぐいで、日付や場所、会った人など、交わされた会話などが克明に記録されている。章によっては日記風になっている部分すらある。
本書で触れられている時間は、おおよそ1960年代のこと。小林さんには『1960年代日記』という本があるが*2、そこに書かれている内容と重複するものなのか、すなわち本書に出てくる「ノート」「メモ」と日記が違うものなのかどうか、日記を読んだことのないわたしにはわからないけれども、いずれにしても基本は自己の記録であるという意味で、まったくの主観に拠っている。
主観を提示し、それを歴史的な流れに位置づけようとするということであればわかる。本書でそうした作業をまったくしていないと言うわけではないが、できるかぎりそれも避けているように見受けられるのである。だから60年代に無名でのち有名になった人との接触も「現代史」の一齣として書かれる。
のちに有名になったという事実は、有名になったことを知っているわたしたちによる後付けの知識であって、無名時代に会い、才能を見抜いた「過去の小林信彦」は知るべくもない。そういう記述を読んで「自慢」と感じる人は、それらの文章を裏づけている「ノート」「メモ」(あるいは日記)の存在を閑却しているのである。
だからといって本書が「現代史」のような「史書」になっているかと言えば、必ずしもそう言えないのではないか。前述のように、主観的な時間の流れを歴史的な流れのなかに位置づけるという手続きが意識的に(?)回避されているからだ。少なくとも、歴史的な流れに注意を向けて叙述されている終盤の第十五章・第十六章になると、迫力が乏しく感じられる。
それでもなお「現代(テレビ)史」の読み物として十分成立してしまうように感じるのは、たぶん、60年代の自分が記録した「ノート」「メモ」を「回想録」の素材としての主観的材料でなく、新聞や雑誌の記事と同じレベルの、歴史叙述を行なうための客観的材料とみなしているからではないか。60年代の自分を、テレビ史の資料を書き残した人物として突き放して見ようとするところがある。
元版あとがきの冒頭、「この本は、ぼくの目に映った〈日本のテレビ黄金時代〉の光景の集大成である」と主観的・一面的であることを断っていながら、巻末にテレビ史年表が付けられ、たんなる「回想録」であることを峻拒しているのも、本書に込められた複雑な色づけを推測する手がかりかもしれない。
逆の立場から考えようとしたことで、かえって本書の方法論的特色を浮き彫りにすることができたかもしれない。やはり小林信彦という人(の本)は一筋縄ではいかない。

*1:ISBN:4167256177

*2:ちくま文庫に入って長らく品切の本書が、今回同文庫の復刊ラインナップに入らなかったのは、諸事情があるにせよ遺憾である。