年一冊ペース

退職刑事2

今回の大阪出張にあたり、新幹線車内読書用として携えたのは、都筑道夫さんの『退職刑事2』*1創元推理文庫)だった。それぞれ40頁に満たない短篇が7篇、期待以上に面白く、すいすいと読めてしまったので、往復の新幹線で読み終えてしまった。
第1冊を読んだのは、去年の夏体調を崩して入院したときのことだから(→2004/7/9条)、一年以上も前のことになる。早く次の冊も読もうと思いつつ、時間が経ってしまった。
飽きっぽい性格ゆえ、よほど入れ込んだものでないかぎりシリーズ物は続けて読むことを自制している。たとえ面白い内容であったとしても、シリーズ物を続けて読むことで惰性になり、面白さを十分に味わえないかもしれないという懸念があるためだ。とはいえやはり一年以上は長すぎる。せめて年一冊ではなく、半年に一冊のペースで読みたい。
この『退職刑事』のような安楽椅子探偵物は、当然ながら探偵が動かずに情報のみを頼りに推理を進めるため、ダイナミックさに欠けるきらいがある。本冊解説の新保博久さんは、長篇という限定つきながら、安楽椅子探偵物の短所について、次のように論じている。

安楽椅子探偵ものの長編は、ジョセフィン・テイ『時の娘』(1951年/ハヤカワ・ミステリ文庫)や高木彬光『成吉思汗の秘密』(58年/ハルキ文庫)のように歴史上の大きな謎を解くといった普遍的な興味を扱うならともかく、架空の事件を描く場合、とかく無味乾燥に陥りやすい。
これは多かれ少なかれ短篇にも共通する評言だろう。もとよりマンネリズムの極地である安楽椅子探偵物の連作に挑んだ都筑さんは、とくに奇抜な謎の設定という点に重きを置いたつくりで、マンネリズム打破を目論んだとおぼしい。新保さんはこれを、「何のために犯人はそんな状況を残したのか、残さざるを得なかったのか」という「whydunitを重視する精神」とする。
「遺書の意匠」では、自殺した人間がなぜあくる日の芝居の切符を買ったのか、という謎から出発する。「遅れてきた犯人」では、自首しようとしていた犯人が宿泊していたホテルの一室で、犯人が部屋の外に出ている間に殺人があり、全裸の女性死体が横たわっていた。女性の衣服は部屋に見あたらない。全裸女性はいったいどこから入ってきたのか。「銀の爪きり鋏」では、右の爪だけが切り揃えられた死体が発見される。
「四十分間の女」では、一週間のあいだ、夜遅くある町に電車でやってきては、41分後に出る終電車で帰る女性が、それを続けた挙句に轢死体となって発見される。彼女はたった40分の滞在時間で何をしていたのか。なぜ殺されたのか。「真冬のビキニ」では、冬の海岸で、水着を着た女性の死体が発見される。真冬で海水浴シーズンでもない時期に、なぜ女性は水着を着ていたのか。
そんな興味をそそられる不可解な謎が読者を物語のなかにひきずりこみ、「退職刑事」の父と現職刑事の子の会話を通して論理的に解決される鮮やかさ。
謎と解決の鮮やかさのみではない。「退職刑事」がとても魅力的な人物像に描かれているのだ。「四十分間の女」によれば、この主人公は「明治の下町」に生まれたとある。初出は75年。明治末年に生まれた人でもまだ六十代だから、十分あり得る設定だった。「明治の下町」生まれだから、「つごもり」が「つもごり」になる。
「隆行邸のお手つだいさんてのは、渋皮のむけた気のきく娘さんじゃないのかい?」と息子に訊ねれば「お父さんのいいかたは古風すぎる」と言われ(「遺書の意匠」)、「水沢というのが客の名で、ユカというのは被害者の源氏名だな?」と問えば、源氏名は古すぎますよ、お父さん」と呆れられる(「銀の爪きり鋏」)。息子の「女ひとりに男四人」という言葉に、「女ひとり、男よったり」と聞き返す(「よったり」には傍点が打たれている)。「よったり」なんて、小学生中学生の頃年配の先生がそう言っていたことを思い出す。
実は老退職刑事のキャラクターを愉しむ以上に、今回すこぶる感激したことがあった。本冊のなかでもすぐれた一篇だと思われる「四十分間の女」は、舞台が浜松に設定されている。女は浜松に来て、終電車で静岡方面へ帰ってゆくのだ。
ちょうどこの短篇を読んでいたとき、わたしの乗った新幹線が浜松付近を通過していたのだった。こんな偶然滅多にあるものではない。別に作品の評価や面白さとは関係ないことだけれど、読書行為に付随してこんな体験ができれば、読書の愉しみはいやが上にも高まるし、読書の記憶は根強いものとなるに違いない。