人間観察のアウトプット

毎日一人はおもしろい人がいる よりぬ

中野翠さんがウェブで毎日連載していた人間観察日記『毎日一人はおもしろい人がいる』*1講談社)は面白い本で、読後妻にも勧めたものだった。そのとき自分が本書を読んでどう感じたのだったか、あえてふりかえらないことにする(ちなみにこちら→“Ç‘O“ÇŒã2002”N4ŒŽ)。
本書がダイジェストのうえ文庫に入り、『毎日一人はおもしろい人がいる よりぬき』*2講談社文庫+α)として刊行された。既読だし、「よりぬき」とある以上元版より分量が少なくなっていることは承知のうえで、いま述べたような好印象ゆえもう一度読むことにした。元版から3年半、この間わたしの嗜好もいくぶん変わってきたから、前に読んだときに気づかなかったこともあるに違いないからである。
中野さんの本を読むたびに感じ、書いてきたことではあるが、中野さんのものの見方、感じ方、感性というものと自分のそれはとても近い。中野さんの本を読むたびに、「そうそう」とうなずくことだらけ。もっとも自分の場合ぼんやり感じているに過ぎないのだけれど、そうしたことに対し中野さんは実に犀利に観察し、これ以上ないというほど的確な言葉で批評する。うなずきながら、見事だなあと感心するのである。
たとえば3月4日の項にある常磐線車内で見かけた女の子。空席があるのに座らずドアにへばりつき、下車するまでずっと鏡で自分の顔を見ている。「それ程見ごたえのある顔とは思えないが」とちくりと辛辣な言葉を投げつけたうえで、この女の子の行為は顔をチェックするためではなく、テレビなどの「画面」を見る感覚で鏡を見ているのではないかと推測する。物心ついたときから「画面」を見ることが生活の中心にあるので、電車でも鏡なり携帯電話なりの画面を見ていないと心が安定しないのではないかというのだ。
坂口(元)厚生労働大臣の「アバンギャルド」な髪型に目をつけ、「人は若い頃の自分のイメージからなかなか逃れることができない」という格言を提示したり、バーコード・ヘアやカツラおやじ、後頭部にm&m'sのチョコレートそっくりなイボのあるおやじに鋭く反応したり。
目を覆いたくなるような羞恥心欠如の若者に嘆くいっぽうで、人形や犬を連れたおじいさんの姿に心が洗われるような気持ちになる。
ファッションセンスを疑うような女性を見つけると、その非についてイラスト付きで散々悪態をついたあげく、こうつぶやく。

そのファッションを正確に図解してみましたが……美女の絵を描くより、こういう女の絵を描くほうが、何だかわくわくと楽しいのはいったいなぜなんだろう。そして、描いているうちに「全然OK、すべて許す、ウルサイこと言ってごめんね」みたいな気持ちが湧き起こってしまうのはいったいなぜなんだろう。(231頁)
きっと中野さんにとって、このような「おもしろい」人を微細に観察して自分の感性とのズレを訴える行為が、一種のカタルシス、精神の健康につながっているのだろう。いや、これはなにも中野さんに限るまい。誰だって、「ねえねえ、今日こんな人を見たよ」という出会いを毎日重ねているはずなのだ。そんな出会い、観察をアウトプットすることで、たとえ不快な対象であっても、「すべて許す」という気持ちになって一日を気分良く終えることができる。生き方がうまいのである。
そういえば今日出かけたとき、地下鉄の車内で途中から乗ってきてわたしの隣に立ったおじさん(だかおにいさんか)の妙な行動が気にかかり、読書(この『毎日一人はおもしろい人がいる よりぬき』)に集中できなくなってしまった。
その男性は、乗ってから降りるまでずっと、右手と言わず左手と言わず、首の後ろや前(顎の下)をボリボリ(「ポリポリ」ではない)と掻きまくっていて、その動きが少しずつ激しさを増してゆくので、気になって仕方がない。ちらりと横目で見ると首筋が真っ赤になっていて気の毒なほど。きっとこの乾燥する季節に皮膚がかゆくなるような持病のある方なのだろう。わたしも最近この季節になると、足がかゆくてたまらなくなる。
だから同情してしまうのだけれど、隣でひっきりなしに首を掻きむしられると、気にならないわけにはゆかない。この体験を中野さん風に「おもしろい」と同列にするのは失礼ながら、このように書いて対象化してしまうことで、頭の中の老廃物を流しきった爽快さ(書かれた人にはたまったものではないが)を感じてしまうのだった。
最後に今回「よりぬき」を読んで印象に残った一節。
でも、私はいつもこう思っている。映画の好き嫌いは、ほんとうに人それぞれだ。100%一致することなんて絶対ない。30%くらいが普通。50%で「好みが合うほう」、70%で「相性いいね」、80%なんていったら、生涯で一人か二人だろう――って。(209頁)