古びない音楽入門書

私の音楽談義

9月の金町散策のおり古本屋で手に入れた芥川也寸志『私の音楽談義』*1ちくま文庫、→9/4条)は、音楽に縁遠い生活を送ってはいるが、何かピンとくるものがあり購った本である。これが正解だった。自分の面白い本に対する勘が鈍っていないこともわかって大満足の本だった。
本書は作曲家芥川也寸志による「音楽入門書」であり、目次には「音楽談義」「リズム談義」「旋律談義」「ハアモニィ談義」「形式談義」「楽器談義」「音楽談義再説」といった言葉が並んでいる。それぞれ音楽というものを構成する主要な要素について、卑近なたとえをふんだんにまじえ、ユーモアたっぷりに音楽の愉しさを説く。
ときにはたとえ話や体験談が論じる目的(=音楽)から大きく逸脱してしまうが、最後にはちゃんとそれが音楽の何たるかを理解する近道であったことがわかり、著者の啓蒙家としてのレベルの高さに感じ入るのである。挿話を通して芥川也寸志の人となりが透けて見え、そのことだけで読書の愉しみを味わうことができるのだが、主目的は外していない。瞠目の本だった。
序論「音楽談義」の数ページを読んで、「この本はただものではない」「ただの概説書じゃない、いつの時代にも通用する普遍的な音楽入門書だ」と驚倒され、いつ頃出た本なのか、巻末の初出情報を見たところ、また驚いた。初刊は1959年(昭和34年)5月なのだ(版元は音楽之友社)。
なのにいまから約50年も前の本だとは思えない新鮮な語り口で、内容もまったく古びていない。せいぜい、音楽と学問は別だと説くにあたり、「音楽とはあたかも「ワイセツ文書」と「チャタレイ夫人の恋人」とは厳然とはっきりと区別しなければならないように、いやそれ以上に学問とは一線を画して別々に考えるべき」(12頁)というたとえに時代性を感じるくらい。
こんな本を文庫に入れてくれた筑摩書房は素晴らしいなあと感激が大きければ大きいほど、そんな文庫の宝というべき名著を品切にしたままであることに対する憤りも大きくなる。
芥川也寸志の主張は次のようなものだ。音楽は自らすすんで鑑賞、実践の経験を積むことで「良い鑑賞者」となることにある。理論や教養といった世俗的知識は不要とは言わないまでも二の次で、権威に盲従せず、まずは自分の生活のなかで自ら欲して音楽を体験することが大事だ。そうした「音楽的生活」を通して自分自身つねに反省しながら前進して生きねばならない。人間そうした進歩が大事だ。
以上の基本的思想のなかに、あるいはチャタレイ夫人以上の時代性が感じられるのかもしれない。本書のところどころで顔を出す芥川の進歩主義的思想に辟易しないと言えば嘘になるが、その点を割り引いても名著であることは変わらないと断言できる。
あいにくわたしは鑑賞・実践という行為とは遠いところから、まさに芥川が批判するような教養的な方向から音楽に接しようとする側だったから、そういう何も知らない人間として芥川の説く音楽のさまざまな基礎はまさに「目から鱗が落ちる」ごとく面白いものであった。しかもブッキッシュな人間として、音楽概論をこんな形で活字で読むことができるなんて、これにまさる喜びはない。
音楽は時間の芸術である。リズムは時間に秩序を与えるものだから、音楽にとってきわめて重要な要素である。このことを論じる前提として、音楽学校学生時代の挿話が語られる。天長節明治節のとき、宮城前広場を目ざし軍隊ラッパのリズムにあわせて行進していた。ところが向こう側から日蓮宗の信者たちの行列と行き会い、その行列が唱える「南無妙法蓮華経」のリズムが進軍ラッパのリズムとぴったり重なってしまい、厳粛な行軍なのに学生一同笑いが止まらなくなってしまった。リズムは人間の肉体的感覚といかに密接に結びついているかがわかる。
「形式談義」の章では、時間芸術たる音楽にも空間性が必要だと説く。

音楽とは時間の流れの上に作られる芸術です。ですからその限りでは、正しく時間的芸術であります。
 けれどもただ音が鳴り続けているというのでは、工場のサイレンだって、チンドン屋の吹き鳴らすラッパの響だって、みんな同じことです。その時間の中に築かれる空間が大切なわけです。(111頁)
かくして旋律・リズム・ハアモニィも音楽に空間構成を与えるものであり、それらを総合するのがソナタ・ロンドといった「形式」であるという。
「音楽談義再説」でひとまず論を閉じたあと、「アラカルト」として、論じ残した諸点について短い文章を連ねている。そこには映画音楽の善し悪しを論じた「映画音楽の形式」のような興味深いエッセイも含まれている。芥川一族は、兄(長男)の比呂志といいこの也寸志(三男)といい、父とまったく別の分野で一流の評価を得ながら、そのかたわらすぐれたエッセイ・著作をものするという文才も兼ね備えている*2
本書読後、思わず積ん読の山の底から、購入したままほうっておいた『芥川比呂志エッセイ選集 全一巻』*3(新潮社)を掘り出し、座右に引き寄せパラパラとめくり、拾い読みを愉しんだ。

*1:ISBN:4480025251

*2:次男多加志は戦死したという。

*3:ISBN:4103005041