武田五一の軌跡

最近ひとりで空橋、空橋と騒いでいる(→9/9条9/30条10/9条)。本郷の台地と西片の台地の谷間に架けられ、二つの台地を結んでいた陸橋のことで、正式名称は清水橋、通称空橋(からはし)と言う。
その橋をデザインしたのが、帝大建築科を出て京大の建築学科教授としても著名だった武田五一であり、彼は本郷の東大から空橋に向かう途中にある真宗の教会堂求道会館も設計している(1915年竣工)。
このわたしの“空橋もしくは武田五一ブーム”を見すかしたかのごとく、今日から文京ふるさと歴史館で武田五一の企画展が始まった(12月4日まで)。いやあ面白い。彼は伊東忠太より5歳年下にあたり、後年ライバルともなるようだが、建築物も、建築物に対する意匠の凝らし方も、コレクションのあり方も、絵心があることも、忠太に劣らず個性的で才能抜群の人物とおぼしい。
武田は福山の出身(井伏鱒二と同郷)で、父が旧藩士だった縁で福山の旧藩主阿部家と親交があった。阿部家の中屋敷は西片にあり、明治に入りそこを開発分譲しながら生きのびようとする。そこには東大の教官たちが多く住むようになり、学者町という独特な雰囲気ただよう高級住宅地として現在もその風情をとどめている*1
五一もまた西片の地に住み、またそこに立つ阿部家の屋敷や空橋(設計図には「伽羅橋」)を設計したのだという。武田の設計した空橋は木造で、現在の(また映画「足摺岬」「親馬鹿大将」で映っていた)橋とは異なる。ただ、橋から谷底の道路に降りてくる坂道の雰囲気は現在とあまり変わらず、そこを樋口一葉が通ったことを思うと感慨深い(木造空橋の模型が展示)。
彼の設計した建築物としては、現在千葉トヨペット本社の建物として残っている日本勧業銀行本館(明治32年)や、比叡山延暦寺大書院として移築された永田町の旧村井吉兵衛邸*2、名古屋龍興寺に移築された旧藤山雷太邸などがある。彼が設計した和風建築が延暦寺など寺院建築として現在も使われているなんて、面白い話だ。
展示物では、東京帝国大学工科大学造家学科に提出された卒論や、卒業証書に目がとまった。卒論は「茶室建築」という表題で、とても卒論という雰囲気ではない、何かの写本とも見紛う和綴墨書の書物であり、挿入図ももちろん手書きで綺麗に彩色されている。
卒業証書は、造家学の主任辰野金吾以下、工科大学の教授連12名の自署・印がずらりとならんだ奥に、工科大学長古市公威の自署・印、最後に総長浜尾新の自署・印がある立派なもの。卒業証書の威厳が、そのまま当時の「学士様」の威厳と直結する。
武田は外側(建物)の設計だけでなく、アール・ヌーヴォー、セセッション様式の旗手として家具や照明器具などのインテリアのデザインにも手を染めており、彼の発想の源となったようなデッサンや切抜きのコレクション、また実際にデザインを手がけた椅子や調度なども展示されていた。
入場料300円のうえ、資料的にも読みごたえのある図録が800円と格安で、期間内にもう一度訪れたい。こんな価値がある展覧会だった。

*1:この経緯を知るには、池内紀さんの連作短篇集『街が消えた!』(新潮社、ISBN:4103755024)所収「いの一番」がいい。

*2:村井は「たばこ王」として知られた人物。