共同でも面白い

「夜の流れ」(1960年、東宝
監督成瀬巳喜男川島雄三/脚本井手俊郎松山善三司葉子山田五十鈴三橋達也志村喬三益愛子白川由美草笛光子水谷良重市原悦子宝田明北村和夫横山道代/星由里子/中丸忠雄岡田真澄長岡輝子越路吹雪

天気がいいから散歩に出かけようじゃなく、映画を観ようというのは変な話だが、ずっと家のなかにいて悶々としているよりはましだ。ひとつフィルムセンターにでも行って成瀬巳喜男監督特集でも観ようかな、そんな思いでプログラムを繰ったら、未見の遺作「乱れ雲」が午後にある。よし、これに決めた。
ところが身の回りのあれこれにふりまわされているうち、もう時間は正午になっている。たぶん今度の成瀬特集も人がたくさん押しかけ、時間ぎりぎりでは危ないだろうな。しかも今日は休みの日だし。などとうだうだ考えているうちにも時間は過ぎてゆく。結局諦めた。仕方ないので、この悶々を録画してあるDVDで紛らわそうかとも考えたが、気分を変えて、司葉子つながりで別の成瀬映画を観ることにした。
この「夜の流れ」は変わっている。成瀬巳喜男川島雄三の共同監督という体制。撮影や美術なども二人ずつ。いろいろな情報によれば、この共同監督というのは、ひとつのシーンに対して二人が話し合って演出を決めてゆくのではなく、二チームに分かれて別々のシーンを撮影し、あとでつなぎ合わせるというものらしい。脚本も井出・松山と二人だが、それもこうした体制に即応しているのかどうかわからない。
これも聞いた話では、観ているとこのシーンは成瀬、あのシーンは川島とわかるものだという。そういうコントラストがあるから、どうもちぐはぐでいけないという不評がついてくる。
そんなものなのだろうかと映画を観はじめたけれど、わたしに観る目がないせいか、どうもはっきりわからなかった。草笛光子さんによれば、草笛さんはこの映画では「川島組」に属したという。年長の世代は成瀬、若い世代は川島の担当だったそうだから*1、そのつもりで観ていてもあまりはっきりしない。はっきりしないのが功を奏したのか、けっこう面白く感じた。
舞台は築地辺にある花街で、芸者置屋と料亭が焦点となる。置屋の女将が三益愛子市原悦子水谷良重を抱え、また草笛光子はアパートで暮らし外車(ルノーらしい)で通ってくるハイカラな芸者だ。彼女たちがよく上がるのが、山田五十鈴が女将を勤める料亭で、山田はオーナーの志村喬から経営を任された「雇われ女将」である。
志村は山田に気があるのだが、山田は料亭の板前である三橋達也と内緒でいい仲になっており、山田の娘である司葉子も実は三橋に惚れているという設定。山田五十鈴がいて、三業地が舞台でとなれば、やはり「流れる」を思い出さないわけにはいかない。タイトルまで似ている。実際「夜の流れ」は「流れる」の変奏曲だという指摘もある*2
「流れる」の場合、山田が女将である置屋に視点が絞られていたが、「夜の流れ」ではそこに料亭という場所が加わり、視点も複眼的になり、人間関係も複雑になる。母娘で一人の男に惚れてしまうという点、オーナーと女将の関係、オーナー親子(志村と白川由美)・女将親子(山田と司)それぞれの関係、芸者同士の恋の鞘当て(水谷と草笛)、一人の芸者をめぐる奪い合い(草笛と宝田明北村和夫)。
草笛の元夫で、自分で女をつくって草笛を捨てたくせに、未練たっぷりに草笛にまとわりつく厭らしい男の北村和夫。北村を観て生じる不快感におぼえがあると思ったら、北村が宝田を埋立地(やはり晴海のほうなのだろうか)に連れて行き、草笛をめぐり談判をするシーンを観て気づいた。これは「稲妻」の小沢栄太郎を観て感じるあの不快感だ、と。
北村が運転する乗用車から二人が降りて、あれこれと話し合っている途中、車からクラクションがきこえてくると思ったら、埋立地で遊んでいた子供たちが車に群がっていじくり回している。北村がそれを見て追い払う。「稲妻」で、乗ってきたスクーターに子供が近寄っているのを追い払う小沢栄太郎の構図とそっくり。「男の厭らしさ」を際だたせる演出と言えようか。
「秋立ちぬ」といい、この映画でも築地本願寺や元の新橋演舞場など、あの界隈がカメラに収められている。商売優先の三益愛子のドライな身のこなしや、山田と三橋の仲が発覚したため志村によって女将を辞めさせられた山田の後釜としてやってきた越路吹雪の冷たい視線が、神経をささくれ立たせるくらいリアルである。

*1:「撮影所の思い出(草笛光子インタビュー)」、『東京人』2005年10月号「小特集 映画監督成瀬巳喜男の世界」所収。

*2:阿部嘉昭成瀬巳喜男 映画の女性性』河出書房新社