悪夢を祓う偏見の威力

会社の渡世

ここ数年のいわゆる「山口瞳ブーム」のおかげで、河出書房新社から単行本未収録のエッセイが刊行されたことは喜ばしい。「男性自身」の単行本未収録分が2冊、その他のエッセイが4冊にのぼる。
もっとも、そのいずれもいちおう買ってはいるが、あまり読もうという気が起こらないのはなぜだろう。「男性自身」の未収録分というのはとても魅力的なのだが、欲ばって言うなら、やはり連載という流れのなかで読みたい。その他のエッセイ集の場合、小泉癸巳男の版画がカバーに使われた造本(装幀は山元伸子さん)は格調高くて素敵なのだが、中味は“落穂拾い”という感が否めない。山口さんの未読エッセイ(「男性自身」)がまだまだたくさんある身としては、すぐそちらに手が伸びるというところまではいかない。
すべて買ったと書いたけれど、最後の『会社の渡世』*1だけは新刊で買うタイミングを逸し、手をこまねいているうちにブックオフで見つけてしまったものだ。そして実はこの本が単行本未収録シリーズのなかでもっとも読みたいと思っていた本だった。
というのも、それまでの単行本未収録エッセイ集がテーマにそくした寄せ集めなのに対し、こちらは雑誌連載がまとまって収められているからだ。巻末の「初出誌一覧」を見ると、本書は「山口瞳氏の生活と意見」「山口瞳氏の一日社員」という二つの連載エッセイから成っている。
後者が1964年の一年間『オール讀物』誌に連載された12篇で、前者は65年から66年にかけ『漫画讀本』誌に連載された10篇である。『江分利満氏の優雅な生活』が直木賞を受賞し、『週刊新潮』に「男性自身」の連載を始めたのが63年のことだから、上記二つの連載は山口瞳という作家のごく初期に書かれたエッセイということになる。
後者の「山口瞳氏の一日社員」は、簡単に言えば企業訪問のルポルタージュである。サラリーマン物を書く作家として白羽の矢が立てられたのだろうか。当時ユニークな経営手法で成長しつつあった企業(の工場)に山口さんが訪問し、現場の人や経営者に取材して書かれたノンフィクション・ルポルタージュで、山口さんらしい独特の切り口で企業の現場に流れる空気や取材対象者の人柄が描かれている。重松清さんのある種のノンフィクション作品を想起してしまった。
取り上げられているのは日本水産ミキモト・パール、精工舎(現セイコー)、東洋工業(現マツダ)、ヤマサ醤油、日本楽器(ヤマハ)、専売公社(現JT)仙台工場、日本石油(現新日本石油)、中外製薬全日本空輸、内外編物(現ナイガイ)、吉田工業(現YKK)の12社。いずれもが現在も大企業として存続しているものばかりで、この企業選択が著者自身によるものならば、その炯眼に敬服するしかない。
パンストを生産している内外編物の工場を訪れたおりの印象として、「たとえば私が工場内を歩いていると娘さんはみんな実にいい感じで黙礼をする」226頁)と褒めているのは、いかにも山口さんらしい着眼だ。「いい感じで黙礼」というニュアンスが曖昧なようでいて、でもイメージできるのである。
面白いのはたんなる企業訪問にとどまるのではなく、ミキモトなら伊勢、精工舎なら信州、東洋工業は広島、ヤマサは銚子、日本楽器は浜松、専売公社は仙台、中外製薬は帯広、吉田工業なら富山のように、地方都市訪問にもなっていて、たとえば専売公社訪問ではじめて東北地方に足を踏み入れたときの感想は次のようにあって、東北出身者としては苦笑せざるを得ない。

美しい沼がある。そこに形のよい松がある。気持ちよくひろがった野原がある。寝ころぶのに具合のよさそうな丘がある。そうして、そういうふうでありながらそこに人間というものが全く見当らないという風景は、実もって淋しいじゃあありませんか。(174頁)
本書を読んでいたある日の夜中、妙な夢を見て目が醒めた。自分が自分の遺体を見ている。まわりの人が「あと数時間処置が早ければ…」と悔やんでいるのだ。寝つけなくなってしまったので、落ち着くためこの『会社の渡世』を手にとって読み始めた。すると、ある一篇を読んだら愉快になってきて、夢による圧迫感が消え去ってしまった。まもなく眠りに就くことができた。
そのエッセイとは、前者のシリーズ「山口瞳氏の生活と意見」に含まれる「東京、わが偏見」である。これぞ東京人山口瞳の偏見爆発、この文章が偏見の人山口瞳の像をつくったもとなのではないかと思われるような、決めつけの極地ににして、鋭く的を射た箴言の数々に唸った。
「銀座で食事をするのは、資生堂とか不二家とかオリンピックという表通りの店にきまっていた。裏通りのうまくて安い小料理屋を探すなんてことをしなかった。それは品のわるいことであった」(56頁)
「銀座のデパートは安っぽいものだと思っていた。銀座には、優秀な専門店がそろっていた。子供ではあるが、文房具は、伊東屋か文祥堂か、すこし歩いても丸善で買うべきものと考えた。/日本橋三越は、お高くとまっていて、よそよそしかった。そこのところが田舎くさいのである。白木屋は大衆的で、がさがさしていた。私にとって、デパートは高島屋なのである」(57頁)
「上野。すなわち東北地方である。/池袋。こわい。/渋谷。安い買物をするところ。官員さんや大会社をソツなく勤めている人たちが乗り降りする駅。(…)目白。郊外である。/板橋区。埃っぽい。埼玉県の一部。(…)中央区。商人の住むところ」(59頁)
最後に、山手線の内側に住むと宣言していた自分が郡部(すなわち国立)に住むようになってしまったことを告白し、こう結んでいる。
しかし、私は、足利尊氏のように、西鉄へ落ちのびた三原脩のように、いつかは都に攻めのぼろうと思っている。東京に住んで、東京を育てる義務があるのだから。(63頁)
「東京を育てる義務がある」から都心に住まねばならぬ。この気概こそ東京人の心意気じゃあありませんか。
ところでこの「山口瞳氏の生活と意見」は初出誌一覧を見ると『漫画讀本』誌に飛び飛びに掲載されている。不定期連載なのかと思い、中野朗さんの労作『変奇館の主人』*2(響文社)所収の「著作目録稿」を調べてみると、そうではなかった。
江分利満氏大いに怒る実はこの連載は65〜66年の二年間同誌に連載されており(65年のみ「江分利満氏の生活と意見」という通しタイトルが付いている)、本書未収録の各篇は、すでにエッセイ集『江分利満氏大いに怒る』(集英社文庫、未読)に収録済みだったのである。つまり本書にはこのとき収録が見合わされたものが集められているのだ。
落とされた(つまり本書に収録された)各篇を見ると、上記の東京論のように小気味よいが偏見色が強いもの(漫画論、女性論、サラリーマン論)や、時代色が強いプロ野球論(まだ巨人V9時代初期)が選ばれたようで、山口さんの単行本制作時の意識を考えるうえで興味深い*3。でも、V9の黄金時代を歩みはじめた巨人に対し、その真の強さはONの活躍にあるのではなく、柴田・黒江・土井ら小型選手が働いたときにあると指摘するなど鋭い見方が随所に見られる。
中野さんによる「著作目録稿」を見ると、こうした野球エッセイやキャンプ訪問・観戦記などのルポルタージュはほとんどが単行本に収められていないようである。たとえ取り上げられている選手を知らなくてもいいから、読んでみたいなあと思うのはわたしだけではあるまい。

*1:ISBN:4309017215

*2:ISBN:4906198007

*3:この考え方は「男性自身」を単行本にするときにも共通しているように思われる。