村上春樹新刊を初めて読む

東京奇譚集

村上春樹さんの新作短篇集東京奇譚集*1(新潮社)を読み終えた。春先、文庫化された『海辺のカフカ』を素直に面白く読み(→3/7条)、村上春樹も悪くないと思った。
天の邪鬼だから、「すでにたくさんの人が読んでいる」という圧倒的な事実を前にすると、その本(作家)を読む気が失せる。「面白い」と感じた本があとでブレイクすれば「ほら見ろ」と鼻高々になるくせに、後塵を拝することは好きではない。勝手な話だ。
海辺のカフカ』のときは「初めて読んだ村上春樹作品」だったから、この『東京奇譚集』は、「初めて発売時に買って読んだ村上春樹作品」ということになる。何と言っても「東京」と「奇譚」というわたし好みの単語が二つつなげられている(ついでに言えば「集」という単語も好きな部類に入る)のだからたまらない。文芸誌の新聞広告を目にしたときから、本にまとまったときに読もうと決めていた。
だいたい村上作品は、自分にはよく意味のわからないタイトルが多かったから、『東京奇譚集』という至極あっさりしたタイトルは逆に印象が強くなる。
「奇譚」とはいえ、超自然現象だったり、どぎついほど非現実的、幻想的な話があるわけではない。登場人物の女性に知り合いのある方を思い浮かべた冒頭の「偶然の旅人」のなかで、作者は主人公にこんなことを言わせている。

偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真っ昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。(41頁)
本書に収められた五つの短篇は、いずれもそんな日常のなかでありふれて見過ごされたかもしれない現象が、「強く求める気持ち」によって浮かび上がってきたような話でできあがっている。日常的なのだけれど、体験する側が「奇譚」にしてしまっている。
……という感想を読み終えたら書こうと思いながら、最後の一篇「品川猿」を読んでいたら、けっこうこれが「奇譚」という言葉から想像するようなれっきとした「奇譚」となっていて、戸惑ってしまった。
自分たちのまわりにごろごろ転がっている「偶然の一致」の種を見つけることが「奇譚」なのだとすれば、わたしが村上春樹の新作『東京奇譚集』を買ってほどなく読んだということも、それに値するのかもしれない。真っ昼間に打ち上げられた花火の煙が、何かの拍子に目に入り、その存在を確認できたということか。
臼田捷治さんの『装幀列伝』(平凡社新書)だったか、村上さんが造本にも気を配る作家であることを知った。新潮社装幀室による装幀なのだが、カバーといい表紙といい、触り心地がよくて、カバーを外しても付けていてもどちらでも読みやすい(汚れを気にする必要がない)のは素晴らしいことだ。カバーと帯の色合いもよし、角背の風格もよし。
さらに、村上さんの本すべてがこんなデザインになっているのか知らないけれど、目次や奥付が左下がりにスラリと斜めに揃えられているそのスタイリッシュなセンスも嫌いではない。