第77 秋冷の候菊坂散歩

鎧坂下

すっかり涼しく、空気も爽やかさが増し、長袖シャツ一枚で歩くのがちょうどいい季節になった。喜ばしいことである。暑い時期は、忙しさも多少あったが、精神的にもあまり出歩く気持ちになれなかった。昼休みも建物のなかに籠もりきりで外に一歩も出ず、家から持参した弁当やあらかじめ買っておいたパンを囓る日が多かった。こんな生活では運動不足になって身体にも悪い。
忙しさということでは大した変わりはないのだけれど、涼しくなると気持ちにも余裕が出てくるものだろうか、せっかく仲秋のいい季節、建物のなかに籠もっていてはもったいない、昼休みちょっとあたりを散歩してこようという気分にさせられる。食事の時間も含めたっぷり一時間、外に出て足の向くままぶらぶらと歩いていると、戻った頃には心はすっかりリフレッシュしている。散歩に向く本郷に職場があるというのはとても贅沢なことだと、いまさらながら天に感謝する。
先日観た映画「足摺岬」(→9/9条)の記憶がなお強く刻まれており、木村功が下宿していた家、津島恵子が住み込みで働いていた菊坂の大衆食堂、津島の弟砂川啓介が失踪したとき、木村らが探し回った坂下の景色はどのあたりなのだろうと探してみる気が起きた。
大学の正門を出て棚澤書店の店頭本を眺め、路地に入る。この路地には数年前のフジ月9ドラマ「ランチの女王」(竹内結子主演)の舞台となった洋食屋(江口洋介らが働く店)の建物がある(現実には洋食屋はおろか店舗ですらない)。
路地の突き当たりには、修復されてすっかり小ぎれいになった真宗大谷派の教会堂求道会館がある。京大建築学科の創設者武田五一の設計だ。さらにそこからずんずん本郷の奥地へ進むと、西片へ渡る橋がある。通称空橋(正式名称清水橋)で、樋口一葉も通った橋だ。森まゆみさんの『一葉の四季』*1岩波新書)から孫引きすると、一葉の日記に「空橋のした過る程、若き男の書生などにやあらん、打むれてをばしまに依かゝりて見おろし居たるが、何事にかあらん、ひそやかにいひて笑ひなどす」(136頁)という記述がある。
現在の空橋は求道会館と同じ武田五一設計のはず。武田五一伊東忠太のライバル的存在で、日本におけるアールヌーヴォー建築の先駆者でもあったらしい*2
西片の台地と本郷の台地の間には、中沢『アース・ダイバー』新一さん風に言えば、沖積低地が洪積台地を深く抉ったような谷間があって、空橋はこの谷間に架け渡されている。「足摺岬」の最初のほうで、木村功が母原ひさ子と並んで歩く後ろにこの橋が映り、橋の上では教練の帰りなのだろうか、西片から本郷方向に銃を担いで行進する学生の姿が捉えられている。
もう一箇所、木村と津島が橋の上をやはり本郷方向に向かって歩いているとき、橋の下の道路では軍歌を歌いながら出征兵士を壮行する行進の列が通る。橋上の二人の間では、津島の兄が捕虜になって銃殺され、そのため残された姉弟が肩身の狭い思いをして生きているというやりきれない事実が語られる。この映画において空橋は軍国主義的風潮のイメージを背負わされている。
空橋から下の道路に降り、菊坂下まで歩く。木村が下宿していた家はあのあたりだろうとあたりをつけ、菊坂の路地裏に入ると、やはり推測のとおりだった。鎧(あぶみ)坂下の、坂を下りきった曲がり角にある家、ここが下宿の位置にあたる。鎧坂は、片側の崖が石垣になっている。
足摺岬」では、津島の弟砂川が強盗容疑で捕まり、結局冤罪で釈放されたものの、兄の不祥事(捕虜)をなじられたことで心に深い傷を受け、下宿を飛び出し自殺してしまう。部屋から消えた砂川を懸命に捜すシーンが、この鎧坂下で展開する。
晩菊の風景鎧坂から菊坂に並行する裏通り(下道と言ったか)に戻り、そこから菊坂の表通りを見上げると、表通りに上る階段ぎわに、ささら子下見の木造三階建て家屋を見つけた。そういえば成瀬巳喜男監督の「晩菊」で、杉村春子が住んでいたのもこのあたりだったはずだ。裏通りから入る路地には、有名な樋口一葉旧居跡(井戸)があり、表通りに上る別の階段脇には、かつて宮沢賢治が下宿した跡がある。映画散歩、文学散歩の興はここにきわまる。
津島がいた大衆食堂は架空の設定なのだろうか。いまの菊坂からはうかがいしれない。もっとも蕎麦屋や洋食屋はある。菊坂下から坂を上っていく途中、洋食屋の店頭に出ていた黒板にランチメニューとしてカツカレーが書き出されていた。この洋食屋にはこれまで何度か訪れたことがあるが、カツカレーに心動かされる。本郷界隈の店は入れ替わりが激しいけれど、この菊坂の途中でひっそりと家族経営のように営んでいる洋食屋は生き残っているのだなあと嬉しくなった。
もとより食事後のことゆえこの日は断念したけれど、翌日ふたたび今度は逆に菊坂を降りて洋食屋におもむき、前日同様カツカレーが書き出されていたことを確認したあと、それを食べたことは言うまでもない。学食カレー3食分の値段だが、菊坂という場所とこの店の雰囲気にはかえられない。実際こういう気持ちになるのは稀だが、こういう気持ちになることを忘れてしまう人間にはなりたくない。
カレーを平らげたあと、腹ごなしのため菊坂を下りふたたび鎧坂下に出、空橋に上るという前日とは逆のコースをたどる散歩を楽しんだ。

*1:ISBN:4004307155

*2:藤森照信『日本の近代建築(下)』(岩波新書ISBN:4004303095