評釈的文体と連句的書評

花づとめ

このあいだ読んだ谷沢永一向井敏『読書巷談 縦横無尽』*1講談社文庫、→9/5条)のなかで、安東次男『花づとめ』が取り上げられていることは少し触れた。
二人の激賞ぶりが尋常でないため、猛烈に読みたくなる。この本は一昨年11月講談社文芸文庫*2に入ったものの、迷っているうちに古本屋で中公文庫版『花づとめ―季節のうた百三章』*3を見つけたので、そちらを買っていたのである。昨年4月、ラピュタ阿佐ヶ谷成瀬巳喜男監督の「旅役者」「妻」を観に行ったさい、阿佐ヶ谷駅北口アーケード街の中にある千章堂で出会ったのだった(→2004/4/18条)。
『花づとめ』は『週刊読売』に足かけ3年にわたり連載された103回のエッセイで、「季節にちなんだ和歌や俳句、それにときどき漢詩などもとりあげて評釈したもの」(前掲書所収向井発言)である。「単なる評釈集、随想集というのじゃなくて、日本のうたのみごとなアンソロジーになっている」(向井)、「これは全部、詩人論、俳人論であり、詩史の縦の流れもちゃんと見ている」(谷沢)とそれぞれ褒めあげたあげく、谷沢さんが次のように駄目を押す。

その前に玄関口としての『花づとめ』は、必ずしも世に喧伝された名作ばかり採っているのではないけれども、日本の古典詩歌への参道として絶対に読んで損のない本だ。万葉とはこんなものだったんだとか、古今集にはこんなスタイルがあったんだ、ということを全部知ることのできる便利さ、それに詩風の変遷もわかるし。また、詩歌の評釈の語り口――何と言ったらいいか、この人は決断力の評釈家だから、そうした決断力の評釈の男性的なリズムのおもしろさというものが楽しめる。(58頁)
冒頭の「玄関口」云々というのは、安東評釈の結晶は『芭蕉七部集評釈』だけれども、いきなりこれを読むのはしんどいのでという流れからつながる。こんなふうに読み巧者の二人に言われると、読まずにはいられなくなるではないか。
読んでみると、たしかにそれほど有名でない歌や句が多く取り上げられているので、取っつきにくさを感じないわけではなかったけれど、何よりもその語り口に魅了された。谷沢さんの言う「男性的なリズム」もそうだが、文章がさっぱりと刈り込まれて簡潔であるいっぽうで、ある種の華やかさも持っている。
中公文庫版の解説が向井敏さんである(たぶん『読書巷談 縦横無尽』が機縁なのだろう)。向井さんは本書の文章の魅力を「切れ味のよさ」としたうえで、「秋水一閃というか、それはときに、練達の剣客のふるう剣の動きもかくやと思わせる」と形容する。
そもそも安東さんの文章を読み、連想したのは向井さんの文体だった。さらに、丸谷才一さんの語り口も思い出した。文章に俳味のあるところなど、中村真一郎『俳句のたのしみ』*4新潮文庫、→2004/9/10条)も浮かび、さらにそこで触れられていた柴田宵曲『古句を観る』(岩波文庫、拾い読み)ともつながっているような気がする。このさいついでにいえば、瀬戸川猛資さんの文章にもそんな「秋水一閃」の雰囲気がある。
強引にひっくるめれば、これら安東・丸谷・向井・中村・柴田・瀬戸川といった人びとの文章には、俳句評釈的な気合いが濃密にまとわっているというべきだろうか。安東・丸谷・中村・柴田という歌句の評釈を書いたり、実際句作もする人は別にして、向井・瀬戸川両氏が俳句もやっていたという話は聞いたことがない。でも、何となく俳句も作っていそうな、そんな予感がする。
『花づとめ』のなかでとりわけ印象に残るのは、連句への鋭い認識である。友人と連句をやり始めたら興に乗り、電話で丸谷才一大岡信を呼び出して徹夜麻雀ならぬ徹夜興行を楽しんだという一篇があったり(「連句」)、丸谷さんから発句(俳句ではない)の添削を求められた話から、自己完結的な現代俳句の弊を指摘し、連句的な共同体の存在を語る(「はつしぐれ」)。たんなる俳句と、付けてくれる「脇」を想定した発句が言葉の選び方ひとつでいかに変わりうるのか、本書で蒙を啓かされた。
いうまでもないことだが、俳諧師というのはいわゆる俳人とは違う。他人の句がそこにあれば、まして同席した相手が発句の一つでも作れば、それに脇句を付けたくなるのが、俳諧師である。むろん、自分が発句を作るときも、誰かが(相手が)それに脇句を付けてくれることを、半ば本能的に期待している。付句(連句)あっての発句である。(190頁)
むかしは、歌合だの次韻だの、連句だの唱和だの、便利なことばがあった。ことばだけでない。そういう詩の在り方を信じて疑わない心がまずあった。(154頁)
本書では連句への注目と同時に、取り上げられた詩歌それぞれに「唱和」の気持ちのあるなしを探り、あるとすればその存在を指摘する。たとえ会ったことのない遠い昔の人が詠んだ歌や句であっても、それらに対する畏敬の念を踏まえて詠む、そんな唱和という共同の場の存在が強く押し出される。
いささか唐突めくが、先に評釈的文体として並べた丸谷さん以下、ことごとく書評の達人でもある。ということは、書評という営みは、ある意味連句的でもあるのかもしれない。そんなひらめきが頭に浮かんだ。
自己完結的でなく、それ(書評)を読むと脇を付けたくなる。要するに、取り上げられた本を読みたくなり、さらに自分も人に本を薦めたくなったり、自分なりの感想も言いたくなる。そんな誘い水のような書評。
丸谷さんの最新刊である書評集『いろんな色のインクで』*5(マガジンハウス)の冒頭に、書評のコツを開陳したインタビュー「藝のない書評は書評ぢやない」が収められている。ここに、書評をひと言でいいあらわした印象深い一節がある。
書評というのは、ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙みたいなものです。(28頁)
やっぱりいい書評もまた自己完結的でなく、何らかの共同体が前提となっているとおぼしい。書評と連句は深いところで通じ合っており、書評の名手と言われる人は、連句がかたちづくる共同体的連帯に強い共感を持っている人であると言っても、あながち的はずれではないように思う。

*1:ISBN:4061834002

*2:ISBN:4061983512

*3:ISBN:4122020301/中公文庫版は、元版にあった岡鹿之助・駒井哲郎の挿画が表紙・口絵にあしらわれているのがお得である。

*4:ISBN:4101071071

*5:ISBN:4838713916