寒いよ寒いよ寒いのよ〜

東京日記―卵一個ぶんのお祝い。

立ち読みすらほとんどしないという“雑誌趣味”に乏しいわたしの買う雑誌は、いまや『東京人』ただ一種類と言ってよい*1。まれに『芸術新潮』を購うこともあるけれど、近年は年に一度あるかないか。『東京人』すら毎月買っているわけではない。特集次第だから、三分の二程度だろうか。
好きな書き手である川本三郎さんや川上弘美さんの連載があるにもかかわらずこうだ。雑誌とは読むものでなく参照するものという感覚が沁みこんでいるらしい。連載物はいずれ本にまとまったときに読めばいいと、ざっと目を通すことはしても、熟読に至らない。
リビングに置いてあるマガジンラックからあふれてしまい、やむをえず『東京人』のバックナンバーをトイレに5冊ほど並べている。トイレに長居せざるをえなくなったときなど、任意のページを開きたまたま川上さんの「東京日記」が目に入ったときでも、卒読にとどまる。
その川上さんの「東京日記」がようやく一冊の本になった。『東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』*2平凡社)だ。このなかには、2001年5月号から2004年4月号までの3年分が収められている。雑誌連載ではたんに「東京日記」だが、続刊の含みをもたせたゆえか、サブタイトルが付けられている。
いや、これはサブタイトルというより、メインタイトルと言うべきだろう。「東京日記」の四文字は、本の背では角書風に割られて配され、表紙には遠慮がちに小さく印刷されているから。「あとがき」を見ると、このタイトルは予想どおり「敬愛する」内田百間の作品にちなんでいるらしい。ただ、「とはいえ、百間先生と並んでしまってはおこがましい気がして」、四文字を小さくしたとある。
この本は他の作品に増して川上ワールド全開で、頬と気持ちがゆるみっぱなしだった。なんでこの人はこんな奇妙で、へんてこりんで、おかしなことが書けるのだろう。人間離れしている…、と書こうとしたけれど、逆にとんでもなく人間くさいのかもしれない。

八月某日 曇
 中央線に乗っていたら、隣に立っているおばあさんから、「体格がいいのねえ」と話しかけられる。はあ、と曖昧に答えると、おばあさんは「そんなに体格がいいから、おこさんを五人も生んだのね」と続ける。五人も子供を生んだ覚えはなかったが、おばあさんがあんまり確信に満ちてにこにこしているので、だんだん自信がなくなってくる。
一読漱石の「夢十夜」か百間の「東京日記」の味わいを連想し、思わず付箋をぺたりと貼りつけてしまったエピソードだ。この記事は帯裏に全文刷られていたのをあとで知ってびっくりした。編集者(?)も注目の話だったのだな。
こんな電車の不条理体験は、この日記の一番最初の記事にある「大福おじさん」からしてそうだ。背筋をぴんと伸ばし鞄の中から大福を6個取り出して食べ、平然と電車を降りて行くおじさんから目が離せない川上さん。両国の江戸東京博物館に行くときの出来事で、川上さんは両国駅で「どすこいせんべい」(バラ売り)五枚を買って帰る。「大福おじさん」と「どすこいせんべい」(しかもバラ売り)の取り合わせの妙。
十二月某日 曇
 寒い。大声で「寒いよ寒いよ寒いのよ〜」とでたらめな節で歌いながら玄関の扉を開けると、隣の人が扉にお飾りをつけているところだった。
 「のよ〜」の「よ〜」をいそいで喉の奥に飲みこむ。でも間に合わなかった。隣の人が「あっ」というふうに口を開けている。見ないふりをして、脱兎の如く階段を駈け降りる。
でたらめな節回しの「寒いよ寒いよ寒いのよ〜」という戯れ唄と「脱兎の如く階段を駈け降りる」という古風な言い回しの組み合わせの妙。
あまりに面白いので、仕事に疲れたとき目を通せばきっといい気分転換になるだろうと、職場に置いておこうと決めた。でも、『漱石俳句集』にしろ『小沼丹全集』『古川ロッパ昭和日記』にしろ、そんな気構えで職場に置いてある本(もっとも後者二つはたんに自宅に置き場がないからだが)が当初の目的どおりの役割を果たせたためしがない。

*1:妻が定期購読している『通販生活』は例外。

*2:ISBN:4582832822