そして「稲妻」へ(前編)

成瀬巳喜男の世界へ

昨日触れた阿部嘉昭成瀬巳喜男―映画の女性性』*1河出書房新社)や、先日敢行した「稲妻」の舞台のひとつ(新)新田橋探訪などがきっかけとなって、にわかに身辺成瀬熱が高まったかのようである。ここ数日、手もとにある成瀬関係本を座右に掻き集めてきて、ひっきりなしにめくり返している。家のなかを移動するときも(といっても広さはたかが知れているからトイレや寝床へという意味だが)、これらの文献を抱えて移動する始末。
その勢いもあって、6月に出たのを買ったまま、たまにパラパラめくるだけだった蓮實重彦山根貞男(編)成瀬巳喜男の世界へ』*2筑摩書房)を通読することができた。
本書は、蓮實・山根両編者による、それぞれ戦後期、戦前期と手分けをした重厚な成瀬論、海外の批評家、新進気鋭の若手研究者による斬新な成瀬論に加え、岡田茉莉子玉井正夫・中古智といった成瀬映画関係者へのインタビューなどが収められた成瀬論集である。
編者二人によって、“小津安二郎木下恵介溝口健二黒澤明につぐ第五の巨匠”といった序列的・相対的な評価から解き放つべしと高らかに宣言されているにもかかわらず、海外の論者のなかには、やはり小津・溝口といった映画監督との比較的観点から自由になっていないものもあって、そんなズレが面白いと言えば面白い。
わたしはと言えば、上記4人の監督作品はわずかな数しか観ていない、日本映画好きになった最初の時点から“成瀬絶対主義者”なので、蓮實さんからこのように言われるととても嬉しい。
昨日の夜更け、眠い目をこすりながら三度目の「稲妻」を観て、「ああ、やっぱりいいなあ」と気分良く床についたわたしは、たとえば蓮實さんが「稲妻」の一場面を論じたこんな文章に惹かれずにはいられない。

ある夏の日、彼女(三浦光子―引用者注)は、しっかり者の妹にともなわれて、日傘で暑さをさけながら、夫の子を産んだという中北千枝子の運河沿いの仮寓を訪れる。当事者はいうまでもなく、見ている者もまたうんざりするほかはない気の滅入るようなエピソードである。だが、成瀬巳喜男は、その気詰まりな光景を、到底忘れがたいシークェンスに仕立てあげている。実際、窓辺に三浦光子と高峰秀子が座り、中北千枝子がときおりうちわで風を送りながら壁際の奥から二人をもてなすという構図を窓越しに置かれた外部のキャメラが円形から視界に浮上させた瞬間、このシーンの演出がことのほか念入りなものとなろうことは誰にもすぐ予感できる。それと同時に、日々の暮らしとほぼ地続きの地平で演じられるこの凄惨な光景に向ける成瀬巳喜男の透徹した視線に、見る者は戦慄をおぼえずにはいられない。(「寡黙なるものの雄弁―戦後の成瀬巳喜男」)
三浦・高峰の姉妹が新田橋で「運河」を渡って中北の仮寓を訪れ、三浦の亡夫が妾中北に産ませたという赤ん坊の養育費について談判する、「稲妻」中盤の山場である。蓮實さん独特の華麗なレトリックでこう語られると、何やらこの場面に成瀬演出の要諦を知る重大な秘密が隠されているような気がしてしまう。
すでにこれより先、三浦の夫が急逝した直後、中北は赤ん坊を背中におぶって三浦夫婦が営んでいた洋品店を訪れ、拝ませてくれと頼みこんで拒否されている。故人に「お世話になっていた者ですが」と名乗られただけで、三浦は亡夫と彼女との関係を察知する。「何も聞いていないですから」「突然言われても」と中北の願いをやんわりと拒絶し、香典の受け取りまで断ってしまう。
このシーンと、上記の中北の仮寓でのシーンにおける、中北の仕草が絶妙なのだ。しずしずと首を動かしながら、けっして三浦・高峰姉妹に視線を合わせようとせずに物を喋る。卑屈さを身体いっぱいに表現させつつも、言葉からはてこでも動かぬという勁さがにじむ。それは蠅帳のなかで無邪気に寝ている赤ん坊がいるからであるわけだが、それゆえに赤ん坊を抱えこの先彼女はどう暮らしてゆくのか、そんな憐れみを感じさせずにはおかない微妙な空気。
蓮實さんは上記引用した文章のあとに、「不快な女性であるはずの中北千枝子をいささかも敵役として演出していない」という成瀬演出のポイントを鋭く指摘する。敵役として登場してもいいはずの中北にも、被害者的なイメージをまとわりつかせる。蓮實さんの言う「庶民劇」の真骨頂がそこにあるのだった。