新刊を待ちきれず

夢の日だまり

べつにわたしだけに限るまいが、自宅で読む本と電車で読む本は別にしている。先日読んだ浅田次郎椿山課長の七日間』のように、ときたま、電車で読んでいてやめられなくなり、家でそのまま読みつぐような本もないわけではない。
自宅本にしろ電車本にしろ、帰ればあの本を読めるから早く家に帰ろう、家に帰るのが楽しみだ、とか、あの本を読めるから電車に乗りたい、降りないでもう少し乗っていたい、などと思わせるような本を読むのは、本読みとして理想的だ。大げさかもしれないが、そういう意味で面白い本は、確実に人生を前進させてくれる。
むろん購入する本すべてそんな気概で買っているつもりだから、いつも読書を楽しみながら前向きに生活していなければならないはずなのだけれど、なぜかしら上のような気持ちにさせられる本にそう頻繁にお目にかかれるわけではない。不思議である。
何かのきっかけで、川本三郎さんが今月平凡社から新刊を出すことを知った*1。好きな時代劇映画ばかりを論じた『時代劇ここにあり』*2だ。いずれ買って読み、影響されるに違いなく、川本さんに導かれて時代劇映画を観ている自分に向かって、「ああ、とうとうここまで来てしまったか」と感慨深げにつぶやくもう一人の自分が見えてくるかのようだ*3
それからというもの、川本さんの新刊がいつ出るか、毎日毎日楽しみに待ち焦がれている。あまりに楽しみなので、とうとう待ちきれず、書棚の“川本コーナー”から、未読の川本本を物色して読み始める始末。それがエッセイ集『夢の日だまり』*4日本文芸社)で、この本が前述した「人生を一歩進めてくれる」本となった。
本書は90年代初頭、あちこちの雑誌や文庫解説として書かれた、主として文芸評論、書評エッセイを中心に編まれている。柱となるのが、『Be-Common』という雑誌に連載された「わたしの古典散歩」と、『JAPAN AVENUE』という雑誌(どちらも知らない)に連載された「セピア色の紀行」二つの連載物である。
前者は漱石の『三四郎』、荷風の『つゆのあとさき』から、秋声の『縮図』まで、すでに古典的評価が定まっている小説作品を、都市東京と絡めて捉えなおした内容、後者は明治・大正期に海外に渡った日本人による紀行文学を紹介する内容である。それぞれいかにも川本さんらしく、対象となる作品から読み取ることができる都市へのまなざしを鋭く切り取ると同時に、その作品を書いた人に対する暖かな敬意が伝わってくるいい文章だった。
その他名著『荷風と東京』以前に書かれた、“荷風偏愛宣言”とも受け取れる荷風論や、澁澤龍彦寺山修司を論じたエッセイが複数篇収められている。これらを読み、自分が川本三郎という文芸評論家の名前を知ったのは、「澁澤龍彦論者」としてだったことを思い出した。その後十数年間で川本さんの著作に親しんできたうえで、あらためて澁澤を論じた一文を読むと、妙に違和感をおぼえてしまうのだから不思議である。
本書のなかでとりわけ好きなのは、本の冒頭と末尾にそれぞれ活字のポイントをわざわざ落として収められたエッセイだった(「花歩き」「ソメイヨシノの故郷」「無口な古本屋」「東京抒情」)。町歩きと文芸評論が分かちがたく結びついた、いわば川本スタイルの内容。やはりここに落ち着く。
本書最後の一篇「東京抒情」の最後の二つのパラグラフは、東京で暮らし、東京を楽しむ川本さんの生活スタイルを凝縮しているかのようである。

 あらゆる酒のなかでいちばんおいしい酒は、忙しい一日が終わった夕暮れどきに最初に飲むビールの一杯だ。あのビールのうまさは、忙しい一日があればこそで、暇な日の昼間からビールを飲んでもそれほどうまくない。
 それと同じで、東京で生活していると、毎日があわただしいからこそ、逆に、小さな余白を大事にできる。忙しさと忙しさのあいだに急に生まれた時間の余白が何よりも貴重なものに思えてくる。そんなとき、ふだん何気なく見ている東京の平凡な町の風景が、一瞬だけ、美しく輝いて見えてくる。
この頃(90年代前半)盛んにいい文芸書を出していた日本文芸社の本には、付録として著者ともう一人の人による対談の小冊子が必ず挟み込まれていた。この『夢の日だまり』では、鹿島茂さんが川本さんの対談相手として登場している。鹿島さんもちょうど同じ頃、澁澤論者として知った口だ。
二人は青春時代に見たポルノ映画や新東宝の怪談映画などを話題に、楽しそうに語り合っている。二人はそれぞれ『大正幻影』『馬車が買いたい!』で同時にサントリー学芸賞を受賞した同士で、授賞式が初対面だったという。川本さんを知り鹿島さんを知ったあの頃を懐かしく思い出す。

*1:ついでに川上弘美さんも、『東京人』連載の「東京日記」をまとめた本を平凡社から出す。もう出ているのだろうか。

*2:ISBN:4582832695

*3:この新著刊行に合わせ、来月から再来月上旬にかけ、同書に取り上げられた時代劇映画を上映する企画がシネマアートン下北沢であるらしい。そそられる。

*4:ISBN:453705025X